応仁の乱の頃である。越前の寒村に、非人の子として生まれた。名もなくて、ただ鮫と呼ばれる。網も許されず、竿だけで鮫しか釣れぬ。それが非人に課せられた掟である。しかも獲れた鮫はすべて名主様のもので、運び込んだもっこに残された2~3匹が、食い扶持である。鮫漁を教えてくれた兄は、鰐鮫に食われて死んだ。否応なく飢えが襲ってくる。飢饉がそれに輪を掛けた。乞食が夜盗となる。ただひとりの身寄りである母は、その夜盗に殺された。下半身を白くあらわにむきだし、さかさまの顔に両の眼がうつろに見開いていた。鮫はそこに留まる意味を失った。飢饉の冬に、多くの流民にまじって京を目指した。多くの行き倒れ、誰も手を貸そうとしない。10歳になるかならぬ餓鬼・鮫が、7里半の山道を越え、近江に抜け出たのである。道づれとなった越中からという女が、食い物を分けてくれた。袋にたずさえていた獣肉である。空き家の囲炉裏で炙って喰った。ある夜、ひとりになったその女が包丁を手に、盛りあがった死体の尻肉を削いでいるのを眼にした。口にしたのは人肉であった。
 京にのぼった鮫は盗賊の手下となって生き延びた。成人となるや、人を殺めることも当たり前の、盗っ人狼藉の限りを尽くした。畠山家の相続争いを端に発した戦乱は、そんな無秩序のすべてを許したのである。いつしか、鮫は富樫政親の足軽となり、六条河原の疾風(はやて)と名乗るようになっていた。ある夜、尼寺に押し入った。蓮如の娘・見玉尼との初めての出会いである。仲間に快楽を邪魔されまいと、肩にかつぎあげて、神楽岡の頂上まで駆け上がった。「はよう好きになされませ。あとで、きっと、南無阿弥陀仏と申されませ」。見玉尼は身動きひとつせず、悲鳴もあげなかった。しみいるような静かな眼で疾風を見つめながら、そういい、身を静座に直すと、うなだれて合掌した。大刀を抜き去り、切り殺そうとしたが出来なかった。
 この一件が忘れることができない疾風は、吉崎御坊に向かう見玉尼を訪ねた。病弱な彼女を吉崎までおぶさって運ぶことになった。この吉崎で、初めて文字を学び、書を読む。17年の転変を重ねて、加賀・湯湧谷に道場を持ち、名も下間蓮見(しもずまれんけん)と改めた大坊主となった。一向一揆という歴史舞台への登場となる。
 これが真継伸彦の小説「鮫」のあらすじ。日本の歴史のなかで、民衆が主役となった唯一の社会変革が、一向一揆ではなかったか。「百姓の持ちたる国」である。実態は自治国といわれるほどではないが、とにかく百姓が武器を持ち、勝ち取ったのである。そうさせたのが親鸞の思想。真継は、善悪混交する布教者の堕落の世界を、想像裡によみがえらせる苦の遊戯にふけったという。暴力革命運動を信じることが出来なかった。それに代わる、反戦、平和への希求を宗教に、とりわけ仏教に求めたともいえる。この続刊が「無明」(むみょう)である。
 この平成の世が、応仁の乱の時代に似ていると思うがどうだろうか。肉親を殺めて平然としている世相は末法といわねばなるまい。鮫の出現もまた待たれるところだ。
 本を片付けようと思いつつ、取り掛かるのだが、その都度挫折してしまう。ああ、これも読んでいない、この結末はどうだったか、などとついつい時間が取られてしまって進まない。それでも、こうして真継に再会できたのはうれしい。
 また昭和41年当時、学生に大きな影響を与えたのが、真継の小説「光る聲」。ハンガリー動乱を取り上げ、民衆に敵対する国際共産主義体制に大きな疑念を突きつけた。気の小さなものをして、政治の恐怖に怯えさせ、文学に逃避させたといっていい。その頃の人気三羽烏が真継伸彦、柴田翔、高橋和巳であった。

© 2024 ゆずりは通信