ポスト消費社会

もともと消費意欲が乏しいのだが、最近何を買ったのかと問われるとすぐには答えられない。スーツの買い替えも3年間途絶えている。評判の悪い旧世代メガネも、価格破壊の品質不信から買いそびれている。今はないウスヰで買ったのが15年前。騙されたと思って買いなさいと勧められ、手作りフレームのクローバー社製で、確かレンズ共に15万円はしたと思う。価格以上に使い勝手がいい、堅固なフレームでびくともしない。どこの眼鏡店に出しても、いいフレームですね、と褒められるので手放せない。というわけで、ほしいものは何もない。いつの間にか、そんな老人になってしまった。
 5月29日、百貨店「大和」に公取委が立ち入り検査に入った。取引上の優位な地位を利用し納入業者に自社製品購入を強いたという独禁法違反(優越的地位の乱用)の疑い。絵画や貴金属、電化製品の購入を、業者ごとに割当額を決めていたという。以前から大和と取引をする時は、とんでもない割り当て販売を強制されて、利益など吹っ飛んでしまうぞ、といわれていた。老舗、オーナー企業の断末魔のような生き残り策が、明らかになるかもしれない。昨年9月に新築オープンした大和富山店にも暗雲がたれこめる気配である。
この事件を待ってましたとばかりに、将来を占う本が店頭に並んだ。「ポスト消費社会のゆくえ」(文春新書)。元セゾングループを率いた堤清二と、社会学者・上野千鶴子の対談で、2日間、延べ16時間のものをまとめた。いわば敗者である堤が、上野に断罪されている。
 堤が西武百貨店に入社したのが54年、27歳だった。個人資産100億を差し出して引退表明したのが91年。売上高百貨店1位達成したのが87年だから、独特のイメージ戦略で駆け上がり、あっという間に突き落とされたといっていい。築城30年余だが、落城3年。大衆消費時代を流通革命として共に担ったダイエーも然り、栄枯盛衰とはこんなものである。
 高島屋、三越、伊勢丹に伍していくにはどうするか。トップダウンの広告戦略が大きな決め手となった。アートディレクターである田中一光、山城隆一、浅葉克巳、杉本貴志、コピーライターの糸井重里が集まり、堤もその中にはいって、ブレーンストーミングをやっている。「手を伸ばすと、そこに新しい僕たちがいた」「おいしい生活」がそうだが、顧客ターゲットに対するよりも、自社の女性店員に評判がよく、それで売り上げが伸びたという。今ひとつが文化催事である。既成の画家は老舗に押さえられているので、現代絵画、抽象絵画に絞り込むしかなかった。これは堤自身の趣味の世界でもあり、催事目当ての客は絵を見るだけで、売場に立ち寄ることはなかったという。それでも時代の風をフォローに受けていたのであろう。67年から全国各地に出店する。富山西武は76年。若い人材が伸びやかに働く場を得た。カリスマ堤理論を信じ切っているように見えた。
 さて、バブルがはじける。堤が配した人材が、正しい情報を挙げて来ない。リゾートホテルの西洋環境開発、金融の東京シティファイナンスの2事業がとどめを刺すようにセゾングループが崩壊していく。この失敗はどこにあるのか。?経営体質にあるのか?一部の失敗が他に波及したのか?総帥・堤の経営責任か?それとも堤のパーソナリティにあるのか、上野は迫る。おそらく、そのすべてであろう。とにかく果敢な挑戦は終わった。消費の退潮が始まって15年余。ポスト消費社会がどんなものか、全く見えてこない。
 注目すべきは、上野が示唆的に「レス・ワース」(より悪くならない)という表現を使って、警告を発していることだ。中途半端な時代状況に誰もが耐えられなくなって、天皇制がまだましだろうとする回帰現象をいっている。従来モデルにこだわって、叱り飛ばし、長時間労働でしばりつけるしかないとする経営者だから、まだ持っているのだとする現象でもある。
 さあ、若者よ!勇気を出して、捨ててしまえ!そこからだ。そして老人よ!捨て石となるような消費を考えよう。

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