パシフィコ横浜

パシフイック・コンベンションを略称し、会議場、展示場、ホテルを統合してできたのがパシフィコ横浜。1991年の開業だが、バブルの終盤にNTT株の売却益を活用した民活法適用第1号である。ちなみに第2号が宇奈月温泉のセレネ。都市間競争だと騒がれ、乗り遅れまいと開発競争に明け暮れた時代だった。そんな時代に翻弄されたひとりであり、狂騒の尻馬に乗ったひとりでもある。開業間もないパシフィコ横浜で開かれたシンポに参加して不思議な出会いから、そのおこぼれに預かった。たなぼたといっていいが、記憶に残る思い出の場所でもある。そんな横浜に、20年ぶりに出かけるきっかけを作ってくれたのが小学5年の孫娘だ。愛読する少女雑誌「チャオ」のサマーフェスティバルがパシフィコ横浜で開かれるので、ぜひ行きたいという。夏休みには北海道音更の義弟を訪ねるのもいいかと勧めていたが、チャオには勝てなかった。じいちゃんは昔日の記憶に瞬時につながり、センチメンタル・ジャーニィ・プランがすぐに出来上がった。宿泊は思い切ってヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルにして、横浜中華街は四五六菜館での食事という日程。というわけで、7月21日北陸新幹線に孫たちと乗り込んだ。70歳の思い込みはスーパーセンチメンタルとなるが、許されたい。
 EUフォーラムとやま開催は1994年。日本航空系列の日本コンベンションサービスから、これからの都市づくりのポイントはコンベンションをいかに誘致するかであり、そのノウハウを伝授するシンポだからと参加要請があった。こちらは二つ返事で、物見遊山気分で出かけた。当然宿泊はコンチネンタルとなっており、横浜に住む友人の水間英光を誘った。さんざん痛飲しての翌朝、ホテル1階で食事をしようとレストランに入ると、水間の顔見知りの大西健夫早大教授が偶然そこにいて一緒することになった。「へえ、富山の地方紙にお勤めですか。実はドイツのコンラート・アデナウアー財団から、EUに関するフォーラムを日本の地方都市で開催する案件を持ち込まれ、どうしたものかと思っていたのです。富山で引き受けることは可能ですか」。この一言が始まりだった。富山に取って返し、県庁に自治省から出向している岡本全勝総務部長(前・復興庁事務次官)を訪ねると、願ってもないこと、ぜひ誘致してくださいとなって、あっという間に進展した。予算も使い切れないほど集まり、EU主要国を取材するための海外出張もふんだんに織り込んだ。なぜこんな地方紙でと不思議がられた。そんなこともあり、ゲンのいいインターコンチネンタルにその時のお礼と思えばと、3室を確保して、東京に住む次男家族も招いた。
 さて、夕食の中華街の四五六菜館だが、初めて本格的な中華料理なるものを口にした最初の店である。食通の先輩から、小さくて汚い店だが、絶対にうまいからと推奨された。社宅は東海道線辻堂にあり、早速同僚を誘って横浜で途中下車して挑戦した。冷菜に驚き、焼豚の美味さに言葉を失うほどだった。40年も前のことである。薄給で四苦八苦する日々で、うまいものを求める余裕があるわけがなく、それほどの感動であったのだろう。四五六菜館はその頃とは打って変わり、本館はビルとなり、新館、別館と大拡張している。一見してわからないが、中華街でも栄枯盛衰、競争は激しいのだ。
時代は隔世の感もするが、もっとゆっくり時間が流れていいのではないかと思う。といいつつ、われらが古稀世代のせっかちさは、自らも含めて困ったものである。

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