「贋世捨人」

あの西行を贋世捨て人だという。「西行はんな、あの人、何もかも捨ててもて、無一物がいっちええ、いうような歌、上手に詠んだったわいな。けど、あの人な、世を捨てたったあとも、紀州の方にようけ年貢米が上がる荘園持っとったいう話やないか。これだけはよう捨てなかった話やないか。しがみ付いとったいう話やないか。百姓に汗水たらして働かしといて、我が身は無一物がええ、いう歌を詠む。これが西行はんいう人の性根や」。この話の舞台設定はこんなふうだ。直木賞作家・車谷長吉が30歳過ぎて職を失い、実家に逃げ帰った時に母親が放った啖呵である。職を失うというのも正しくない。新潮社の編集者から一度書いてみろといわれ、ひとつの小説を何度も何度も突き返され、何と12回も「没」となり、もはや自信喪失。世を捨てて生きていくと、播州の親の家に無精ひげをはやし、何日も風呂も入らず、うらぶれ姿で、その上無賃乗車での帰参であった。母親は迫る。無理して大学を出してやったのに、世を捨てて生きるやと、旅館の下足番でもなりな、胸糞悪い。そこまでいわれて車谷は本当に下足番生活に入る。

このおっ母さんの気迫、慧眼こそいま最も必要なのだと思う。世迷い三百代言に惑わされてはならない。西行はなしたもんだ。荘園の上がりで漂泊だと笑わせるな。そんな偽善者にうつつを抜かし、世捨て人を気取るなんて許すわけにいかない。自分で汗を流せ。格好を付けずに屈辱にまみれよ。そうなのである。文化人、知識人ほどあてにならないものはない。その真贋はなかなかに見定められない。アウシュヴィッツでも、シベリアでもその極限状況において誰が信じられるかというと、百姓か職人だという。いわゆる主義者、インテリほどいつ裏切るかわかったものではない。このどやしでもって贋世捨て人を気取る軟弱なるこの層を突き動かさないといけない。
「大鯰口が裂けてもいえぬこと」。わが拙句であるが気に入っている。他人にいえない秘密を持つことは誰にでもある。秘密を持たない人生は深みもないし、のっぺりとつまらないものだと思う。ささやかな秘密を持ったとしても世を捨てて生きることはないのだ。しかし自分に出来ないこと、出来なかったことを口にしたり、まして他人に強制することは卑怯という他ない。この卑怯なる輩がわが者顔に跳梁跋扈するのを許してはならない。教育基本法に愛国心をと声高に叫ぶ輩こそ土壇場では売国奴になりかねない。わが企業存亡の時と声高に愛社精神をいう輩は自社株をもう売り抜けているかもしれない。問題は真贋を見極める猜疑心ばかりのおっ母さんでは、時代が動かない。そして他人の偽者ぶりをあげつらうばかりではやはり品性にも欠ける。党派を組むのは好きではない。それが徒党であったりすると強制、隷従が必ず生じてくる。しかしそれを恐れる余り手をこまねいていては、卑怯なる悪漢の暴走を許すばかりである。今はどうしても党派が必要なのである。自らの足で立っているという自尊心と、屈辱にまみれている人々をおろそかにしない他尊心が対等に行き交う拠って立つところを創らなければならない。いわば下足番連合である。

この時代誰も自分の拠って立つプラットホームを喪失している。誰もがだらだらとひたすら流されるばかり。歴史軸と空間軸の中で考えろ、というのは寺島実郎。歴史軸では、歴史の中で自分がいかなる時代に生きているかを考え、自分を位置づけし「小さいが意味のある存在」として謙虚にどうするべきかという。空間軸では、生きている国や地域や企業がどんな特色を持つものなのか考えて、いかに恵まれているか、そして機会に恵まれているかを知って行動しろという。

考えてみると面白い時代なのである。血を流さないで革命が起きそうな時代だ。あのおっ母さんの「西行なしたもんだ」の反権威が、そして下足番ででも口に糊することを恐れない覚悟もキーワードなのだ。ここ数年の自殺者が3万人を超えている。その予備軍含めて数百万人が起つべきときなのである。

師走に入り、また友を喪った。堀田義郎君、中学時代の同窓で野球部仲間。45年前の大泉中学との新人戦。彼はレフト。頭上を越えるホームラン性の当たり。彼は必死の追いかけて何と小川に飛び込みボールを返球、中継プレーも水際立って、本塁寸前でタッチアウト。このプレーに元気付いて、その裏の攻撃で1点もぎ取り勝つことが出来た。これがわがチーム唯一の勝利であった。その堀田が12月12日大動脈瘤破裂であっけなく逝ってしまった。東大工学部都市工学を出て、これからという時に。

諸君そうなのだ。あとしばらく、あとしばらくという間に、人生終了の笛が鳴るのである。

【参考図書】
「贋世捨人」
車谷長吉著 新潮社1600円

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