再びの古代史ワールド

伊勢神宮の式年遷宮の行事が終わった。特段の興味を持っているわけではないが、伊勢神宮と聞くと、黒岩重吾の古代史小説、大津皇子の悲劇を扱った「天翔る白日」を思い起こす。毎日新聞10月15日夕刊「歴史の鍵穴」がきっかけとなった。
 この式年遷宮の制度を設けたのは天武天皇である。ことは壬申の乱に由来する。大化の改新で権力を確立した天智天皇は、その位を大友皇子に譲ることを決め、弟である天武天皇を吉野への隠遁に追い込む。天智の死後、天武は少数の手勢でもって美濃の地で挙兵し、遂に大友の近江軍を破り、飛鳥浄御原宮を造って即位する。吉野を脱出した際に、立ち寄った伊勢神宮で戦勝を祈願し、勝利を掴み取ったのである。天武はそんな効験をおろそかにするはずがなく、大王家が崇拝する日の神の神社に過ぎなかった伊勢神宮を天皇家の皇祖神としたのだ。
 更に斎宮(いつきのみや)制度を復活させ、娘であり大津皇子の姉でもある大伯皇女(おおくのひめみこ)を斎王として送り込んだ。いわば天皇に代わって神に仕えるのである。南北朝までは続いたといわれる。
 皇位継承を巡る争いはここでも繰り返される。大津皇子は草壁皇子に次ぐ皇太子ながら、若くして文武に秀でて草壁を大きくしのぐ衆望を集めていた。ところが天武が大病を病むと皇后である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)が権力を掌握し、自分の実子である草壁を絶対的な権力をにぎる天皇にしたいと、大津を追い詰める。大津はたとえ僧になり、都を離れたとしても、皇后は吾を生かしておくまいと考える。天武が亡くなった後に、その偲びごとの場で皇后と草壁を討ってしまおうという謀反の気持ちを抱いたのだ。
 そんな追い詰められた気持ちを抱いて大津はひそかに伊勢神宮を訪れる。唯一の肉親である姉・大伯皇女と最期の安らぎといえる時を過ごす。別れ際に「大津、そなたも拝みなさい」という姉の声に従って手を合わせる。弟の思いを察した大伯にとって祈るしかない痛切な時間でもあった。万葉集に詠む。「わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ち濡れし」。私のいとしい人を大和へと見送ると、夜はすぐにふけて、未明の露に私は立ち尽くし、ぬれていた。
 大和に着くや日を置かずに、謀反の罪により追っ手の兵が大津の館を取り囲んだ。皇后により死を賜り、従容として首をくくられて死んだ。潔いものであった。時に大津25歳である。
 大津の亡骸は飛鳥の西の二上山に葬られた。他の皇子たちは飛鳥近辺だが、なぜ大津は二上山なのか。二上山の向こうに黄泉の国に通じる出雲がある。天照と争って高天原を追われ、出雲に下りた須佐之男命(すさのおのみこと)にならったという。その出雲大社も60年ぶりの遷宮であった。天に通じるのが伊勢で、黄泉の国に通じるのが出雲である。
 これらの説は黒岩重吾の古代史ワールドからの引用である。今更ながら黒岩の古代史を分け入っていった想像を絶するエネルギーに驚くほかない。この古代史シリーズがなければ大津皇子も思い起こせない。ありがたい出会いであった。
 はてさて、この1週間は忙しかった。10月11日には新湊小同期16人と初めてパークゴルフに興じた。新湊大橋の東側にある元気の森で、成績がビリであった。13~14日は恒例の立山行きで、弥陀ヶ原から天狗に通じる一の谷道・獅子ヶ鼻コースを3時間余りで歩き、立山高原ホテルで焼酎を痛飲して翌日、室道から浄土山、竜王岳、一の越とこれまた3時間コースを歩き切った。2日間とも晴天に恵まれ、紅葉は過ぎていたが眺望は最高であった。15~16日は東京出張だったが、台風をめがけての上京でホテルでひとり呑むしかなかった。帰りはほくほく線が不通となり、長岡経由で帰宅したのだが午前1時をまわっていた。17日夜はラジオをどう再生するかという会議で、これまた盛りあがった。

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