4歳の時に、実の母親は旅役者と駆け落ちをし、家を出た。一人残された男の子は、作家となって母親像を追い求める。それは母である聖性だけではない、女の凄まじい愛欲地獄をのぞくことでもあった。4月20日未明、丹羽文雄がついに逝った。100歳という。この世にしがみつくような無類の生命力を持て余しながらの最後だ。自らの業を余すことなく引き受けて、そのうめき声が響き渡った。ついに、といわざるを得ない。そんな死である。
その訃報を聞き、手向けの意もあり、「無慚無愧」(むざんむき)を読むことにし、丹羽文雄文学全集第2巻を県立図書館で借り受けた。丹羽文学がここに尽くされているという奥野健男の評を思い出したからである。あとがきに「幸い私には、母の一生という、小説的なあまりに小説的なモデルがあるばかりに、50年近く書き続け、なお書き足りない思いを味わっている」と記している。
蓮子の3度目の嫁ぎ先は伊勢の浄雲寺であった。最初の嫁ぎ先も同じ真宗末寺であった勝光寺。そこで一子をもうけたが若い僧と過ちを犯し、放逐される。二度目は料亭松繁に後添いとして入る。ここでも一子をもうけるが番頭と過ちを犯し、殺されそうになりながら逃げ通した。浄雲寺でも女の児・雅子が生まれた。ところが夫はあっけなく逝き、未亡人となる。37歳とはいえ、大柄で、目鼻立ちのくっきりし、肌の白さはまだ弾力性を備え、まだまだ女盛りであった。雅子が13歳の時に、22歳の農家の次男を養子に迎え、寺を継がせることにする。得度をして光尊と名乗った。空閨に耐えられない蓮子は光尊を手もなく篭絡した。暗闇の庫裡の中で、禁断であるがゆえの欲望が燃え盛る。雅子18歳の時に、本堂で結婚式が行われるがそれでも続く。雅子に女の子・万寿子と男の子・紋多が相次いで生まれる。うすうす母と夫のことを感じていた雅子は口には出せず、鬱々と日々を過ごす中で、旅役者を追っていた。檀徒からの非難に雅子は追放され、蓮子はうらぶれた隠居所に幽閉された。
無慚無愧の極悪人。娘を自らの手で叩き出したのである。これほど悪辣な母親がまたとあろうか。慚とは世間に対しての恥ずかしさであり、愧とは自分の心に向かっての恥ずかしさ。そのどちらの恥ずかしさも、私は受け付けなかった。いつしか隠居所を訪れるようになった雅子と紋多との対面の場で、蓮子は、はじめておのが罪業にのた打ち回る。その晩年は更に悲惨で、中風に倒れ、意識のないまま糞尿にまみれ、目はただれて腐りかけ、背中は永年の床ずれで赤膚となり、白髪を梳けばごっそりと髪は抜け落ちた。心臓だけが動いていた。死に切れないまま、うめき声だけが幾晩も幾晩も響き、死臭さえ漂いはじめていた。その只中に光尊も紋多もいた。
これがあらすじである。母だけでなく、祖母も大きな影響を与えている。20年間アルツハイマーでほとんど記憶、意識がないまま丹羽は、歎異鈔を唱えながらこの地獄を見ていたのである。多くの若き文学者を育て上げ、鈴木真砂女の「卯波」開店資金をポンと出してやる陰徳を積みながらも、自らを救おうとしなかった。他力に任せきりにしていたのであろう。大冊「親鸞」「蓮如」に挑んでいかざるを得なかったわけである。ところで、丹羽夫人もまた認知症を病んでいるようであったが、存命のはずである。これもまた苦しい。
さて、罪悪深重、煩悩熾盛(しじょう)の衆生の徒よ。憂うるなかれ、嘆くなかれ。仏はおあたえくださる、ひきうけてくださる。それを「まうけにする」、つまり探すのでなくそのままいただく。「おまかせする」、はからうのではなく、まかせる。それだけでよいのです。歎異鈔は諭す。
しかし、国際問題はそうはいかない。日中、日韓にただならぬ気配がある。たかを括った小泉外交では早晩行き詰まることは見えている。これを好機として、いま一度それぞれの戦後60年を見つめ直し、次世代の政治リーダーのあるべき条件を考えよう。靖国参拝にまだこだわっているものを選んではならない。これが最低の条件だろう。
「無慚無愧」