「清冽」

いま一度、茨木のり子と思っていたら、評伝なるものが上梓された。わが同世代のノンフィクション作家・後藤正治が、まるで亡き恋人を偲ぶように描いている。「清冽(せいれつ) 詩人茨木のり子の肖像」(中央公論新社)だ。恋敵に寝取られたような気がしないでもないが、仕方がない。読み進むと胸が熱くなってくる。いささか偏屈な肖像となるが、わが茨木のり子像である。
 「政治運動をすることだけがすべてではない。その時々の現象的な運動にかかわるだけがすべてではないだろう。言葉少なに、自分のできる範囲内でまわりに尽くし、黙って死んでいく。そんな生き方だってある。」。大正期から昭和にかけて朝鮮総督府山林課に勤務し、その地を心から愛し、朝鮮の土となった浅川巧を評したものだが、茨木自身もかくありたいと思い、またそのように生きたのである。
 ふたつのことを挙げたい。ひとつは天皇批判である。75年10月昭和天皇は在位50周年に際して、皇居内で公式の記者会見を行なった。その時戦争責任について問われて、天皇はこう応えた。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。これを見逃すことができなかったのが、軍国少女を余儀なくされた世代の茨木だ。野暮は承知と「四海波静」という詩を書いた。「三歳の童だって笑い出すだろう 文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら 四つの島 笑(えら)ぎに笑ぎて どよもすか 三十年に一つのとてつもないブラックユーモア」と断じている。マスコミも民衆も、いまだにタブー視し、腰が引ける中で、ひとり詩でもって声を挙げたのである。
 いまひとつは国歌「君が代」である。NHKホールでのボストン交響楽団公演で、来日儀礼として国歌を演奏したのだが、ほとんどの聴衆が起立する中で、私は音楽を聞きに来たのでね、と茨木だけはじっと座っていた。「鄙(ひな)ぶりの唄」でこう主張してみせる。「なぜ国歌など ものものしくうたう必要がありましょう おおかたは侵略の血でよごれ 腹黒の過去を隠しもちながら 口を拭って起立して 直立不動でうたわなければならないのか 聞かなければならないのか 私は立たない 座っています ・・・八木節もいいな やけのやんぱち 鄙ぶりの唄 われらのリズムにぴったしで」
 激越な口調がもつ浅薄さに反吐が出そうな昨今だからこそ、詩のもっている品格に裏打ちされた清々しい主張がきわだつのかもしれない。
 この評伝で懐かしい名前に出会った。岩波書店編集者・岩崎勝海夫妻との交友が記されている。わが乏しい就活の一環だったと思うが、40数年前岩波書店に同氏を訪ねている。マスコミ希望者にとっては何百倍の最難関企業で、初任給が当時2万円という最高ランクだった。新入社員はね、PR誌「図書」の送付が仕事だ、といわれたのが記憶に残っている。同氏が手がけた茨木のり子著・岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」は79年に出ているが、版を重ねている。入門書としてこれ以上のものはない。
 谷川俊太郎が茨木のことを、「背丈があって目を引くほどの美人でしたね。躾の良さがにじみ出ていて、折り目正しいし人柄もいい。ただ、あまり色気は感じなかった」と評している。また吉本隆明は、彼女は言葉で書いているのではなく、人格で書いている、とも。
 06年、ひとりベッドに倒れこんでいたのを甥の宮崎治に発見された。79歳であった。この詩人にならって、ハングルもかじり、無印良品で買い物をするようになったのだが、その品格からは程遠い生活を送っている。

© 2020 ゆずりは通信