姉からの聞き取り第2弾。敗戦から15日が過ぎ、ようやく8月30日私が生まれた。近隣の人たちが先を争うように引き揚げていく。焦る気持ちを押し殺すように引き揚げの準備している時に、父が務める米穀会社の崔さんが釜山まで同行してくれるという。略奪や暴行から守ってくれるという申し出で、こんな心強いことはない。光州―大田-釜山と列車だった。それが無蓋車で、みんな両足を外に垂らし、ぶらぶらさせて心地よかった。ところが、トンネルに入ると最悪で、顔中真っ黒になった。大田では、崔さんの親戚の家で大変なご馳走になったうえに泊めてもらい、釜山で船に乗り込むまで見届けてくれた。このありがたさは言葉にいい尽くせない。他国にわがもの顔で押しかけてきた日本人一家に、これほど体を張って、わが一家を守ってくれた厚い恩義は忘れることはできない。しかし、崔さんとはそれきりで、手紙を書く術もなく、その後一言もお礼をいわずにいる。
釜山では、学校か倉庫かでの収容生活を余儀なくされた。現場を仕切っていたのが米兵で、いつ乗船できるのか、やきもきしていた。われ先といえば、朝鮮総督夫人が8月15日に密かに船を確保し、荷物を満載して本土を目指したが途中で難破して引き返したという。満州でもそうだが、軍や官僚が大衆を捨てて、真っ先に逃げ帰る。忠誠と愛国を大きな声で叫ぶ人間ほど、裏切るということを肝に銘じておいてほしい。
ようやくの引揚船だが、ボイラーのそばで熱くてしょうがなかった。また、船中で亡くなる人もあったのだろう、遺体はそのまま海中に投げ込んだのか、船は何回か旋回し、大人たちは手を合わせていた。一昼夜の航海で博多に辿り着きほっとした。博多から大阪までの列車だが、復員兵が多く、すし詰め状態で、父がホームの先から乗り込んで窓から家族を引き込んでくれた。列車の中で、兵隊がおもむろに乾パンを取り出して口にする。物欲しそうな顔をしていると、半分ちぎってくれた。
乗り換えの大阪駅では、駅の地下でおちらしを水に溶かし、飢えをしのいだ。非常食としておちらしをリュックの底に入れていたのだろう。ようやくの思いで高岡に着き、新湊の六渡寺にたどり着いた。母はもう歩けない状態で、奈呉町の母の実家に転げ込んだ。一家5人が半年余り居候することになる。しかし母の実家は船数隻を持つ網元だったが、長男は戦死し、持っていた船は網にかかった機雷の爆発ですべて失ってしまう惨状であった。
父はすぐに新湊の蒲鉾と干物を背負って、大阪に出かけ、闇市で売り、古着を仕入れて帰り、新湊でさばいた。もちろん闇統制の取り締まりが厳しく、ひやひやものであった。いつまでも居候は許されず、安い借家を探し、そこの玄関で祖母は水あめを売った。しばらくして庄川べりの新富町に引揚者住宅ができ、幸いにも入居できた。2間に便所が付いた4軒長屋であったが、一家水入らずは大きな喜びであり、希望だった。引揚者住宅はみんな生きるのに必死で、子どもたちも多く、ごった返すような毎日だったが楽しかった。父は大阪での闇商売つながりで、鶴橋駅前の山川商店と懇意になり、古物からメリヤスなどの繊維の商いに通じるようになっていた。親戚の誰彼いわず大阪行きを手伝った。失明した知り合いの馬場さんも運賃が要らないからと何度か同行した。チッキといわれた小荷物切符で届く荷物をリヤカーで運ぶのが日課になっていた。
思うに朝鮮での経験で視野を得ていなければ、闇市で商売を覚え、曲がりなりにも洋品店「婦人商会」を開店させることはなかったと思う。その開店の賑わいがすごかった。店の棚から商品がすべて無くなり、その売り上げを手にすぐに仕入れに出かけた。この店には、近所に住む竹内という小さな子がよく遊びに来ていた。この子が後の立川志の輔であり、その頃からよくしゃべる子だった。