「1945年、26日間の独立」

 朝鮮半島の8月15日はどうだったのか。日本の無条件降伏はラジオ短波で少数の人間は把握していた。40年余も植民地支配に苦しみながら、「知らないうちに解放されていた」という現実。各地でマンセ(万歳)の声が起こっただけで、大勢を揺るがすこともなかった。しかし、ここから思いがけない分断統治と同民族が殺し合う惨劇が襲うことになる。8月15日から米軍が上陸する9月9日までの26日間で、解放から独立にいたる受け皿組織はできなかったのか。貴重なチャンスを逸してしまった。

 「1945年、26日間の独立―韓国建国に隠された左右対立史」(ハガツサ・ブックス。定価2,750円)。著者の吉倫亨は77年ソウル生まれで、ハンギョレ新聞に籍を置きながら、民族の行く末を真剣に思い悩んでいる。執筆の動機となったのは、19年2月28日ハノイで決裂したトランプと金正恩の会談だった。北朝鮮の核問題解決が南北和解の第一歩になる、と大きな期待を寄せていた。決裂の衝撃は大きく、永らく落ち込んだ。そんな中で偶然手にしたのが、半藤一利の「日本のいちばん長い日」。無条件降伏が数か月遅れていれば、ソ連が北海道まで侵攻し、日本が分断統治されていたかもしれない。「朝鮮の歴史のもし」を探ってみることにした。

 米軍が進駐するまでに、どんな動きがあったのか。最初に動いたのは左派活動家の呂運亨であった。右派をも巻き込んで、独立に備えて建国準備委員会の結成に動いた。一方の右派民族主義者の宋鎮禹は全く動こうとはしなかった。右派には苛酷な日帝支配に抗しきれず転向した恥ずべき過去を持っており、軽挙妄動とはいかなかった。半面、反共の意志は固く、呂運亨の誘いに最後まで応じなかった。

 26日間で克服できなかった左右対立の根底に、朝鮮の独立は連合国の勝利による結果だという認識と、独立は連合国の贈り物ではなく、植民地下で多くの血を流してきた「解放の主体性」も無視すべきではないという考え。前者では李承晩を国父と考え、後者は金大中、文在寅に連なる。更に深淵を探れば、36年続けた苛烈な植民地支配に行きつく。

 そんな朝鮮国内の動きをよそに、運命を決定する米国とソ連が登場する。米ソが圧倒的な規制力となり、身動きが取れなくなる。しかし、この両大国は敵対した日独に精一杯で、朝鮮半島への関心が薄く、米ソ英中のヤルタ会談では、信託統治するという合意しか持っていなかった。日本の降伏を確定させた米軍は取り敢えず38度線で分けて占領しようと提案し、スターリンは受けいれた。46年米ソ共同委員会を設けて5年間の信託統治案が討議されるが、まとまることはなかった。48年国連調査団が北に入ることをソ連が拒否したことを契機に、南での単独選挙が強行され大韓民国が成立し、時を置かず北朝鮮人民共和国が成立した。

 米ソの冷戦をリアルに理解し、自らの野心と絡ませたのは李承晩と金日成ということになる。支払われた対価は済州島4.3事件、朝鮮戦争などなどあまりに大きく、今も払い続けている。そして皮肉なことに、南北の和解統一を最も望んでいないのがアベ日本だということも。

 韓国の若きジャーナリストが真剣に民族の未来を憂えていることに感動した。

 

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