科学者たちの楽園

十分な研究予算が用意され、スタッフ獲得などの人事権もある、加えて研究テーマも自由。主任研究員になると、それらのすべてが与えられる。そんな研究機関が大正時代から日本に存在した。高峰譲吉が提唱し、渋沢栄一が設立者総代となり、皇室からの御下賜金、政府補助金、民間からの寄付金によって設立された財団法人「理化学研究所」だ。1917年、文京区駒込でスタートした。国家の威信をかけた科学技術振興策である。全国の天才秀才が集まるのだが、これをどうマネジメントするかが、最大の課題であったのだろう。いち早く、22年に研究室・主任研究員制度を導入した。欧米に負けるな、が合言葉であり、研究効率を優先すれば、そうならざるを得ない。
 こんな偶然がある。日本人3人のノーベル物理学賞の報が届いた7日、富山県民会館で、俳優座による「東京原子核クラブ」が上演された。同賞受賞の朝永振一郎がモデルで、東京本郷の下宿・平和荘を舞台に、理化学研究所の仁科芳雄研究室の面々が登場する。入所初日で自信喪失して田舎に帰ろうとする朝永。世界に先駆けた朝永の論文を、仁科は机の引き出しに忘れてしまい、欧米の学者に先を越されて発表されてしまうなど、逸話が散りばめられている。
 テーマは日本での原爆開発。海軍と陸軍の双方から原爆開発を持ちかけられる仁科に、世界トップ水準という自負が背中を押す。37年、荷電粒子の加速器であるサイクロトロンを完成させる。徹夜続きの実験部隊は、あまりの酷使に、「仁科のバカヤロー」と叫ぶ日々。しかし結果的には、アメリカのオッペンハイマーをリーダーとするマンハッタン計画に先を越されてしまう。戦後になって、ドイツ留学から帰った朝永が、下宿の女主人から、原爆開発をどう思うかと詰問される。「科学者としては、米に先を越されたことがすごく悔しい」と、研究者の業をふりしぼるように話す。もし仁科が先に開発していれば、おそらく中国戦線で使っていただろう。慄然とする仮定である。
 戦後、占領軍はサイクロトンを東京湾に投棄し、理化学研究所は独占排除で解体されてしまう。研究所と称しているが、理化学コンツェルンという堂々とした財閥で、最盛期には63企業、工場数121を有していた。売上高370万円、特許料、配当収入など303万円で、その時の研究費は231万円。使いきれない潤沢なものであった。
 ひとつの例は、鈴木梅太郎研究室が開発したビタミンA。原価1.2銭のものを10銭で売り出し、脚気に効くと評判を呼び、一時収入の8割を稼ぎ出した。人材の輩出も然り。第1回文化勲章は理化研の長岡半太郎と本多光太郎であり、寺田寅彦、湯川秀樹もみんな揃っている。そして戦後、特殊法人として不死鳥の如く復活する。03年には独立行政法人化されてノーベル化学賞の野依良治氏が理事長を勤めている。今も科学者達のパラダイスなのだろうか。
 かつて米在住のノーベル賞受賞者を講演に招こうと画策した経験がある。某筋から飛行機はファーストクラスで夫婦同伴、空港からはリムジン、国内ではハイヤーを手配し、宿泊はその地域のトップホテルでスイートルーム、講演料は当時で100万円以上を用意することといわれ、すぐに断念した。最近の出来事だが、ノーベル賞を受賞している沖縄科学技術大学院理事長にファーストクラス航空券の不正利用が発覚した。ノーベル賞の影の部分だ。そして一部にある受賞者の世間知らずの傲岸不遜を思うと、もうノーベル賞信仰もほどほどにといいたい。ノーベル財団もサブプライムの影響を受けて、資金運用に苦しんでいるというから、いい機会でもある。
 いまひとつ。文部科学省はこうした時流に乗って、来年度予算に革新的技術支援として140億円要求している。配分先を決めるのは常勤4人の有識者という。良質の情報を基準にというが、それも権威とする“理化研”に頼るしかない、意外と狭い世界なのである。学閥を通じた“馴れ合い配分”となり、“つかみ金”になる恐れが強い。

© 2024 ゆずりは通信