居酒屋

60歳にして、居酒屋修行をやることになった。いやもう、引っ込みがつかない。優柔不断と軽佻浮薄を併せ持つ性格だと、こうなってしまう。いつもの顛末である。
 行きつけの店の窮状を見かねて、俺が店に立ってやる、と大見得を切ってしまったのだ。この老体だ、毎日通うには健康が許さない。カウンターの内側に立てば、毎日通うと同じくらいの効果が上がるはず。消費者だ、客だと、賢しらに不満ばかりを並べ立てては男がすたる。一度は売り手側に立って、やって見せるのが男というものよ。いいか、これからはプロコンシューマーの時代よ。同一の人間が、時に生産者であり、時に消費者であることが大事なのよ。相手の立場がよく理解できる。介護ボランティアが、年老いて介護を受ける側にまわるのが典型だ、と酒の勢いも借りてまくし立てた。そして、黙っていればいいものを、軽はずみにそれを飲み友達の多くに口にしてしまったから始末が悪い。もう予約は入るし、営業用の男物エプロンも贈られる。自業自得と覚悟を決めることにした。
 山口瞳に「行きつけの店」という本がある。サントリーのPR誌に連載したもの。12年前の発行だが、読むだけでおいしく、楽しい。それを引っ張り出してきて、心得を学んでいる。映画とTVドラマにもなった「居酒屋兆治」も彼の原作である。モデルは南武線谷保駅の焼き鳥屋「文蔵」の八木方敏。昭和49年オイルショック時に脱サラして、物置を改造した小さな店で開業した。八木は午後9時までひたすらモツを切る。下拵えは前日にと思うが、焼き鳥は切り口が新鮮な方がうまいと、頑なに当日に仕込むのだ。9時が過ぎると下拵えをやめて、客と一緒に飲みだす。9時を過ぎれば客と店主ではなく友達同士という考えであり、それ以降の勘定は勿論取らない。1日2万円稼げればそれでいいと思っていたらしい。文蔵へ客を連れて行くと誰もが驚き、喜んだ。とりわけレバーが絶品で、不思議な世界で飲んでいるような気分になり、多くが常連客になってしまう。またこういう店はお内儀さんがいい。屈託なく、気配りがきく。例えば、初めての客を連れて行った時には、なじみの自分にはむしろ素っ気なく、その客にとにかく話しかける。商売の理にも適っている。山口瞳の持論は、感じがよくてコーヒーのうまい喫茶店、信用できる寿司屋、客が来たときにとりあえず案内できる小座敷のある料理屋を開拓しておけということ。男の甲斐性を見定めるポイントでもある。
 居酒屋経験で忘れられないことがある。いまも繁盛している富山駅前の「初音」。新入社員の頃、同僚とふたりで飲んでいた。生意気盛りでもあり、文学から政治と浮いた話題を語っていたのであろう。突然隣の若いアンちゃんが、襟首をつかまんばかりに、おもしろくない、表に出ろ、と怒鳴りだした。一瞬何のことだと、青ざめた。殴ったことも、殴られたこともない、喧嘩作法などとは縁遠く、とにかく肉弾戦にはからきし弱い。咄嗟の判断がつかない。その時である。いつも飲んだくれの初音の亭主がカウンターを飛び越えるようにして、そのアンちゃんを表につかみ出すや、投げ飛ばしているではないか。わがふたりの様はなかった。こうした胆力、腕力も必要なのだ。その亭主もあっけなく逝き、今はお内儀さんがさわやかに継いでいる。
 そんな不安をよそに、修行スケジュールは着々と進行している。場所は富山駅前。古い雑居ビルの2階で、初めての人に場所を説明しても分かりづらく、店の前まで迎えに出なければならない。今年の春先から、駅前はフランチャイズチェーンの大型居酒屋のオープンラッシュとなり、ますます追い込まれている。まさか、わが読者の中に、行きつけの店と問われて、魚民、笑笑、鮮などを挙げるものはおるまい。また、亭主が客と一緒に飲み出す9時過ぎのタダ飲みを狙って来るものもおるまい。店はそこの主と客が一緒に作るものなのだ。案内状は客としてふさわしいかどうか判断してからにしたいと思っているが、悩んでいる。とにかく、乞うご期待だ。
 プロコンシューマーは、アルビン・トフラーが「第三の波」で提示した概念で、Producer(生産者) + Consumer(消費者)をあわせた造語。脱工業化し、情報・サービス産業が隆盛していくなかで、生産者と消費者の垣根は次第に薄れ、消費者は自分たちで消費するものを自ら生産していくようになるだろう、と予言している。

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