「祈りの大地」後編

古希を目の前にして、この泡立つ心はなぜなのか。これほどの未熟を今も抱え続けているおのれに愕然とする。石川梵の「祈りの大地」は、そんなちっぽけな人間の存在に問いかけている。世界の辺境を歩き、人間の内面世界を追った記録の説得力といっていい。
 ヒマラヤ取材で訪れたチベットではこんな風だ。ロサと呼ばれる新年の行事だが、多くの人たちが、全身を地面に投げ出し、祈りを捧げ、また立ち上がる。まるで尺取虫のようにそれを繰り返しながら前に進む。チベット仏教独特の祈りの作法、五体投地だが、これを繰り返しながら聖地カイラス山を巡礼する信者もいるという。
一方でチャーターした軽飛行機で聳え立つ8000メートルを越えるヒマラヤの山々を俯瞰する。その物凄い眺望に、被写体と写真家の間をさえぎるガラスがない。ヒマラヤから吹いてくる寒風に震えあがりながら、一歩踏み外せば、自ら山中へ落ちてしまう状況だからこそ、ヒマラヤの存在を全身で感じて撮ることができるのだ。低予算で挑むフリーの負け惜しみではないが、高額なジェット機ではこうはいかない。石川はふとこんなことも思う。インドプレートがユーラシアプレートの下に潜り込み、ユーラシアの大地を7000万年かけて押し上げて、ヒマラヤが出現した。いまも押し上げ続けている。ひょっとすると、あの尺取虫で進む五体投地の人々は祈りを媒介にしながら、ヒマラヤが作り上げられたと同じ悠久の時間を共有しているのではないか。自らの受け継がれてきた命の時間を感じ取れということだ。
 インドはガンジス川のほとり、ヒンズー教の聖地アルハバード。12年に一度の大祭クンブメーラが45日間にわたって開かれるが1億人の人間が訪れる。聖なるガンジスの水を飲み、沐浴し、1日1食きりの簡素な食事を摂り、祈りと詠唱に明け暮れる。どの顔もうれしそうで、心からの笑顔で弾けている。サドゥというのはヒンズー教の行者を指すが、解脱を求め、家族や仕事などすべてのしがらみを捨てて出家する。腰袋一つで、寺院の周囲や、河川敷、森や山中の岩穴で暮らす。その聖地で、ひとりのサドゥが右足だけで直立不動で立っている。石川はその眼に驚く。そんな眼を見たのは初めてで、遠い彼岸をみているようだった。古希にもなれば、そんな澄んだ眼も持たねばならない。
 インドネシア東部、レンバタ島のラマレラ村。土地の痩せた火山島の片隅で暮らす人口1000人ほどの村だが、銛一本で鯨を捕る漁をしている。漁法はとてもシンプルで、10艘ほどの船団を組み、毎朝海に繰り出し、強い潮流に立ち往生した鯨を狙って、後を追い、飛びかかって銛を打ち込む。年間捕れる鯨の数は10頭程度、石川はそれを4年間通って、鯨漁撮影に成功した。ほぼ2時間にわたる命がけの死闘を繰り返しながら、マッコウクジラは最後に海上に頭を突き出し、「ウオー」と絶叫すると、そのまま沈んでいく。漁師たちは歌声とともに鯨を引く。肉の分け方は昔から厳格に定められており、骨髄、血の一滴にいたるまで伝統的なやり方で分配される。鯨一頭捕れれば村人は2ヶ月食っていけるといわれる。海で命を落とした人を弔うミサは浜辺で行われる。村民総出で灯篭を海に流し、祈りを捧げる。「いただきます」「ごちそうさま」をもっと心を込めてということ。
 人はカメラを持つことで、事実に事実以上の強度を与えながら伝えられるようになったようだ。
 はてさて、祈りの大地というが、シリア、イラクでは祈りながらの殺戮という不条理が横行している。靖国への祈りも、アジアの人をごまかすことはできない。

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