10月21日東京・新宿で、大学卒業45年記念の同窓会があった。出席するかどうか最後まで迷ったが、血液のがん治療をしのいで参加するという男のメールに促されて重い足を運んだ。この世情をどう見るかに話が及ぶ。プロの出番が無くなって滅茶苦茶になっている、と第一声を挙げたのは商社でエネルギーを担当していた男だ。脱原発などとんでもない。再生エネルギーなど絵空事に過ぎない。東京電力は復活する。優秀な人材はまだ残っており、国有化を脱して生き延びるし、復活させなければならない。政権交代でアマチュア企業が台頭してきたが、危険極まりない。オリンパスしかり、ソフトバンク、オリックスなどだが、明治維新以来続く商社にはリスクが何か明確にわかっている、と老後に憂いもない表情で語る。そうだろうか。新陳代謝のない社会に進歩、希望はない。危うい新興なるものを受け入れない社会は滅亡するしかないのが法則である。
10月25日付け朝日新聞の論壇時評は秀逸な紙面であった。作家・高橋源一郎と社会学者・小熊英二が登場している。それぞれ51年、62年生まれで、いわば新陳代謝世代だと思っている。多少危うさはあるが育てたいふたりでもある。高橋が「ドイツ・フランス共通歴史教科書」を取り挙げているが、いいセンスだ。日中、日韓ともに共同で歴史教科書が作れないか、とすぐに思い立つ。NHKラジオの金曜日午前、パーソナリティもやっており楽しみにしている。
さて、今回は小熊英二に絞りたい。「ネズミの群れと恐竜」と題して、気候変動に適応できない強い恐竜にしがみつく日本の古い安定部分を断罪している。原発にしがみつく電力もそうだが、静岡県議会の複数は電力労組の圧力に屈して住民投票条例を否決する側に回ったという。電力労組は過去より強くなったわけではない。国労や全逓などは民営化や自由化で低落著しいが、電力労組は「最後の非自由化部門労組」として相対的に浮上したに過ぎない。みんなダメになっていく中で、辛うじて残っている力のあるものにしがみついている図式である。原発依存も「最後の補助金誘致手段」とする地方政治、「最後の重厚長大型産業」とする経済界、みな同様である。
小熊は妙な学歴を持っている。名古屋大で物理を学ぼうとして中退、東大農学部を卒業し、岩波書店に9年在籍し、営業への異動を拒否して休職し、東大大学院に転じた。学術論文をものして、慶応大学に教授ポストを得て、湘南藤沢キャンパスが活動の場である。読書は岩波時代で、その蓄積に自信があって、東大大学院に挑んだのであろう。いい意味での野心家であることは間違いない。彼に最初に注目したのは、分厚い「1968 上 若者たちの叛乱とその背景」「1968 下 叛乱の終焉とその遺産」を書店で見つけた時である。全共闘諸党派の活動が、手に取るように読める手法を取っている。社会学的というべきか、ヒトや事件を追いながら起承転結よろしくメリハリがついている。なるほどと頷きながら読める。いま手にしているのは「社会を変えるには」(講談社現代文庫)だが、そのあとがきに「1968」を書きあげたあと、意識不明になって入院し、以後1年ほど療養生活をおくっている。全快を告げられたのが11年4月で、その後また書斎だけではなく、デモ参加など精力的な活動を行なっている。覚束なさも見えるが、将来性ののりしろともいえる。
このふたりを持ち出すまでもなく、「今までの時代と、ちょっと何かが違うようだ」と誰もが感じているのは間違いない。しかし自己変革する力も、勇気もなく、ただ怖いからと同じ手法を繰り返しているのがわが世代。バブル期以前に人格形成し、古い人脈やノウハウにしがみつく人種が、なぜか力を持っているように見える。旧態依然としたものを維持するために無駄な負債を重ね、次代を育成するどころか立ちはだかっているのだ。哀しいが、滅びよ、わが世代!というしかない。
滅びよ、わが世代!