「ハンナ・アーレント」

60年アルゼンチンの路上で元ナチスの高官アイヒマンがイスラエル諜報機関モサドに拘束された。ニューヨーク在住のドイツ系ユダヤ人で、「全体主義の起源」を著し女性哲学者としてその名を高めていたハンナ・アーレントが「ザ・ニューヨーカー」誌の特派員としてその裁判を傍聴し、2年間かけて考え続けたレポートを同誌に掲載する。ドイツ映画「ハンナ・アーレント」の序奏である。エキプ・ド・シネマ第190回ロードショーとあるので、亡き高野悦子支配人を思い起こしながら岩波ホールへ足を運ばなければならないのだが、富山・総曲輪フォルツアで見ることができた。その意欲に感謝である。
 ハンナ・アーレントだが、池内紀(いけうち・おさむ)がこんな風にいっている。怖い「あのハンナ」を映画の主人公にするなんて映画監督は魔術師としか思えない。ナチ政権の誕生とともに逮捕され、南フランスの収容所に入れられたが脱走、パリに潜伏して反ナチ活動を続け、ナチのパリ侵攻を見越してアメリカに亡命し、18年間無国籍のままだった。学生時代にはハイデッカー、フッサール、ヤスパースといった錚々たる哲学者に学び、その影響を受けながら自らの哲学、生き方を探っていた。そして偉大な師であったハイデッカーとは愛人関係でもあった。その師がナチを支持し、親衛隊に入るという衝撃も受けている。その間に大学時代の友人と結婚し、パリでの活動の中で離婚。40年にハインリッヒ・ブリュッヒャーと再婚、共にアメリカに亡命し、夫婦で大学に職を得ていた。
 さて、問題はアイヒマン裁判の傍聴記である。実際に見たアイヒマンは凶悪な怪物ではなく、どこにもいる平凡な人間であった。尋問に答える彼はある意味礼儀正しく、あたかもそれがノーマルであるかかのようにナチスの官僚用語と決まり文句を繰り返す人間だったからだ。思考と判断力がまったく欠如していて、自分の業務がもたらす結果への責任を想像することなく、ただ命令を遂行しただけだと主張したのである。
 彼女は書いた。ナチズムが猛威を振るった15年間、とめどない暴力と殺人をもたらし、実行した者たちは、いかなる異常な人間集団でも、特別の悪人でもなく、ごく普通の陳腐で凡庸な市民たちだった、と。更に加えて、ユダヤ人で構成されたナチスの出先機関であるユダヤ人評議会が、アウシュビッツを助長していたことも指摘したのである。
 イスラエル、全米のユダヤ人団体から、轟々とした非難罵倒がアーレントに襲いかかった。彼女はユダヤ人の友人のほとんどを失い、大学からも辞職を求められた。
 彼女は教壇で反論する。世界最大の悪は、動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間であることを拒絶した者たちが行ったのです。私はこの現象を「悪の凡庸さ」と名づけた。これはまたモラルの崩壊をもたらした。迫害者のモラルだけでなく、被迫害者のモラルも。思考ができなくなると平凡な人間は残虐行為に走るのです。気魄に満ちた講義であり、学生たちは拍手を送ったが、一貫してのシオニストであった尊敬するハンスは「君は傲慢なドイツ人と同じだ。われわれ(ユダヤ人)は大虐殺の共犯者なのか」と憎しみの眼差しを向け去っていった。国家や民族の枠を超えて主張をするものの代償は大きい。
 毎日きちんと会社に通い、家族を愛し、家の前の道路を掃除しても、自分の関係しない世界には何ら関心を示さない。そんな善良な人たちが予期しない最悪の事態を引き起こすのである。肝に銘じておこう。
 とはいえ、現実に戻ろう。政治音痴になったのではないか。そんな思いに苛まれる都知事選の結果である。善良すぎる都民が問題なのか、政権批判勢力を分裂させられて、その暴走を止められない野党の独善にして無能力に問題があるのか。いつまでも共産党アレルギー、小泉アレルギーといい訳をいっている場合ではないだろう。

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