「ソニーがクルマ作りに挑戦か?自動車産業に新規参入計画。身構えるトヨタ、ホンダ、警戒心あらわに」。そんな大見出しのニュースを見たいものである。電気自動車はモーターで動く家電製品だという。玄関先の挿し込みで一晩、携帯電話をやるように充電すれば、翌日には一定距離が走れる。その上、変速機もエンジンの複雑な構造もいらないと聞けば、妙に納得してしまう。ソニー車だって全く不思議でも、夢物語でもないということだ。
果たして、どんなクルマが出現するのか興味は尽きない。まず、デザインだろう。ソニーデザインセンターのもうひとつの神話をつくってほしいものだ。初めてソニー製品を手にしたのが昭和39年。FMの聞ける、片手に収まる小さなトランジスタラジオであった。大学進学祝いに、親戚の津田電気店のおじさんが、これからはFMの時代だからと割安で譲ってくれた。枕元で自由に選局しながら、聞くことができた。有楽町にソニービルが完成したのが昭和41年で、日本一早いエレベーターが売り物の観光名所だった。創業者である井深大、盛田昭夫コンビの名が、新聞に踊らぬ日がなかった。
「昔のソニーだったら、とっくに計画していただろう」と嘆くのは金子勝慶大教授である。もやもやした閉塞感が漂う不況の原因は、多くの若者に巣くう“自己愛”現象だという。それぞれの主張を交換し合うとか、ものごとを積極的に伝えるというコミュニケーション能力が著しく低下しているにも拘わらず、他者を傷つけないコミュニケーション能力は異常に発達している。これは自己愛の裏返しで、自分を傷つけることに対する恐怖、嫌われたくない思いが支配的だということ。自己憐憫といってもいい。そんな若者に、他人のニーズを考えろ、といっても無理である。新事業は気力が勝負、気力のない人間にソフトコンテンツのクリエイティブなものを作り出せるわけがない、ということになる。ソニー車は遠いのだ。
もうひとつ、この不況を理解するキーワードだが、記号消費の消滅がある。金子教授の対談相手である辻井喬、というより元西武百貨店を率いた堤清二の指摘だ。昨年の10月以来、驚くべき変化は消費で出ているという。車社会が突然消えようとしている。車の台数が2割減り、その定価が高級車から大衆車へ乗り換えられることで2割低下すると合計4割と売り上げが激減することになる。車自身もそうだが、損保のダメージも大きく、広い駐車場をもって集客する路線商売が打撃を受けている。百貨店然り、ホテル業界もだが、大きく括れば、記号消費が消えそうになっているということだ。記号消費というのはボードリヤールが消費社会論で定義した。消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動だ、と。わが消費に照らし合わせると、伊勢丹で買ったフォーナインの眼鏡、2万円のDAKSのパジャマ、次男の彼女と食事した銀座レカン、そんなところであろうか。辛うじて、この記号消費を支えているのはわが世代だが、これも風前の灯といえる。体力の衰えを口実に、消費の巣ごもり化傾向は、この老人にして顕著である。
こんな状況を踏まえて、辻井はこれからも危機レベルが高くなり、若い人をますます追い詰めていくと危惧し、金子は小泉改革こそ若者を自己愛のタコツボに押し込んだ愚民政策だと批判し、警鐘を鳴らす。また見逃せないと思ったのは、国家というのもグローバルな世界市場という絶対権力のもとでは中間組織に過ぎないということ。日本というタコツボがあり、その中で若者がさらに自己愛タコツボを作り、二重に巣ごもっている構図となる。お先真っ暗で、打開の糸口が何とも見えない。
といっても暗い話だけで終われないので、光明をひとつ。富山・庄川温泉にある「鳥越の宿 三楽園」の坂井社長だ。温泉とエステで人気だが、海外から輸入している泥パックだが、その素材泥(ファンゴ)を北陸先端科学技術大学院、大和田瑞乃工学博士の協力を得て、自家製造に取り組んでいる。イタリアでは、ファンゴを用いた温泉療養を代替医療として確立している。全国のエステに供給できれば、大きな飛躍となる。きっかけは人の縁。とにかく恐れず、外に出よう。残り少ない記号消費老人よ、タコツボにノックすることも忘れないで。
参照・「世界」10月号から「未完の近代と自己愛に沈む日本社会」「いまこそ内需再生を」
自己愛に沈む若者