あの時代に、あの環境におかれたら、果たしてどんな行動を取っていただろうか。歴史にそんな問いかけをしてみるのも必要だ。昭和19年10月から特攻作戦が開始された。敗戦必至の状況で、沖縄に押し寄せる米軍を少しでも押し留め、本土決戦の時間稼ぎをするというもの。最初は米軍も戸惑い、命中することもあったが、その作戦に気付き、物量に任せて、その行く手を阻むようになる。沖縄まで辿りつくのさえ至難な、ただ若い命を無駄死にさせるだけのものだった。自答すれば、単細胞にして、精神論に傾きやすい思い込みの激しさからすれば、特攻志願は間違いないだろう。
自問は更に続く。特攻を命じる上官となっていたら、どうする。その責任はひとりの特攻兵の比ではない。死にいくのではない、若い命を死に追いやるのだ。そんな非情が出来るのか。これも自答すれば、「俺も必ずあとに続くからな。頼むぞ」と涙をこらえて、命じていただろう。
そんな自問自答をしていると、自分の考え方の不確かさ、覚束なさが見えてきてしまう。とてもとても人様の前で、考えなど話せるものではない、と思えてくる。
小泉純一郎も涙したと聞き、“知覧”は躊躇していた。しかし、それも逃げるようなので意を決した。涙が流れた時は、それも素直に受け入れるべきだろう。六十路にして、偏狭さはふさわしくない。右であれ、左であれ、わが琴線に触れるものは受け入れていこう。そんな思いもあり、鹿児島に住む友人の誘いを受けて、薩摩行きとなった。12月4日、南国らしい陽気に、北国とはやはり違うと足元は軽く弾んでいる。
知覧特攻平和会館への道筋には、石灯籠が整然と続いている。家族及び関係者の寄贈であろうか。聖地化し過ぎていないか、という疑問も湧いてくる。(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念財団などの活動の成果かもしれない。入口で500円の観覧料を払うが、ここは4人別々に見ることにし、1時間後に玄関で集合することを約した。月曜日というのに、込み合っている。遺書に見入って、列が動かないのだ。数分と立たないのに、もう女性の嗚咽の声が聞こえてくる。涙は堪えるだけ堪えようと丹田に力を入れていたが、読み進むうちに、こちらも涙がこぼれてくる。小泉と同根の涙か、と苦笑した。
昭和史を研究する保阪正康は「特攻と日本人」(講談社現代新書)で、特攻作戦を厳しく断罪する。しかし、一方で67歳の著者はかく慨嘆する。日本人は戦争という軍事行動に向いていない。私たちの国は、ひとたびこうした行動に走れば、際限のない底なし沼に落ち込んでいく性格を持っている。特攻作戦はまさにそうだったのだ、と。同感である。
さて、防衛庁が防衛省に昇格する。どうも名称だけの変更ではないらしい。防衛省にふさわしい責任と権限、諸外国軍隊と対等に渡り合える組織、防衛と外交の両輪で国際問題に取り組むなどである。自衛隊法等の一部改正に、こうした本質的な部分が隠蔽されている。際限のない底なし沼の一歩を踏み出しているかもしれないのだ。
“一犬虚に吠え、万犬これにならう”というが、海軍の特攻作戦の責任は大西瀧治朗司令長官ひとりに押し付けられているという。大西は、敗戦の翌日に自決している。死人に口無しというわけである。「あとに続くぞ」といった上官も生き残っているケースが多い。それも厚顔にも、今となっては慰霊が大事だ、と先に挙げた平和祈念財団活動の熱心な推進者だったりする。死に追いやっていながら、実に軽いのだ。これが人々の本質なのだとわきまえておかねばならない。
知覧のたたずまいは、武家屋敷に代表されるように実に落ち着いているように見える。しばらくでもこうしたところで、若き特攻隊員が過ごしたと聞けば、ほんの少しだが救われた気持ちになる。
知覧特攻平和会館