天才マキシム・ヴェンゲーロフとわがトラウマ

少年はヴァイオリンを手にして神社の境内に小1時間所在なげにたたずみ、時間をやり過ごしていた。夕闇が迫ってから、とぼとぼと家に帰る。戦後の引き揚げ者の分際で、その子どもがヴァイオリンを弾くなんていうのはどういう風の吹き回しか、いまだに真相は分からない。しかし小学4年から5年にかけて数人を教える教室、といってもそこの畳敷きの座敷であるが、通ったのである。自分からいい出すわけもなく、両親は仕事に忙しく、そんなことをやらせようというわけもなく、わが生涯のミステリーとしかいいようがない。最初は真面目にやっていたが、数ヶ月経つとそれなりに練習しないとついていけなくなる。どうしてもする気が起きない。そしてその教師からヴァイオリンの弓で頭をしょっちゅう小突かれるようになった。それからである。嘘をついてのサボりが続いた。さりとて両親から叱られるわけでもなく、しばらくしてヴァイオリンは知り合いの女の児にわたってしまった。

そのことがあったからではないが、音楽の成績は3はまれでほとんど2。特に和音を聞き分けることができず、ハーモニカが吹けなかった。完全に落ちこぼれ、いや努力してもうまくなる気配さえなかった。小学校の担任は仕方がないからと、鼓笛隊では大太鼓をぶら下げさせて、指揮棒に合わせるだけでいいのよ、と突き放したようないい方をしていた。

そんな40年以上も前のことを思い起こしながら、100年にひとりのヴァイオリニスト、ヴェンゲーロフに聞き入った。いや見入っていたというべきか。入善はコスモホール。2000年日本公演で唯一の地方公演。入善スタッフの意気込みが伝わるというもの。意気に応えるのがわが身上。チケットを身の程も知らずに引き受け、一応の講釈をたれながらさばいた。勧められる方はクラシックに造詣が深いと思ったに相違ない。

彼は1974年シベリア西部ノヴォシビルスク生まれ、26歳。顔は愛敬のあるファニーフェイス。5歳でリサイタル、6歳で協奏曲と天才の名をほしいままにしている。この日の演奏についてはいえない。わが感度の悪い耳、とりわけ分厚い震えない鼓膜ではその資格はない。どんな賛辞も嘘のように聞こえるのではないかと思ってしまう。ただ指の繊細な動きと弦の運び方の絶妙さを見つめていた。そしてプログラムにある後援イスラエル大使館とあるのはユダヤ系であるからか、とか。彼にストラティヴァリウス‘exクロイツェルを贈ったナガエ・ヨーコ・チェスキーナ夫人とは誰なのかなど枝葉なことに思いを巡らせ、ついに天才の本質に迫ることは出来なかったな、と。

もしあの40余年前に、誉め上手な小出監督みたいな音楽教師に出会っていたらどうなっていただろうか。あなたの耳ではそんな仮定は無駄なことだ、と断定する声あり。入善からの帰途に、都はるみのCDを聞いているのだから、それは間違いないか。

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