ホンダジェットが17年の納入機数で世界一になった。超小型のビジネスジェット機の市場は小さく、世界一といっても43機だが、現在100機を超える受注を抱えている。最近にない痛快なニュースだ。
創業者・本田宗一郎はオートバイの先に、自動車、そして航空機の夢を描いていた。64年に航空事業のノウハウを収集するために本田航空を設立している。93年には他社製エンジンだったが実験機を初飛行させ、97年に現社長の藤野道格がエンジン含めすべて自社製でのビジネスジェット機開発に着手した。しかしこの時期、ホンダ本体の業績が悪化していて、事業化を前提としない研究目的と釘を刺されている。プラン通りの実機が完成したのが06年。米国の航空ショーに出展したところ、大変な好評を得た。やはりホンダDNAの血が騒いだのであろう、当時本体の社長だった福井威夫が藤野の進言を受けて、事業化を決定した。この時点で開発着手から20年経っている。
すぐにノースカロライナ州グリーンズボロに本社・開発拠点・工場を設け、月産4機体制でスタートを切った。ホンダジェットの最大の特徴はエンジンが主翼の上に据えられていること。これで7人乗りのスペースを確保し、軽量化で燃料効率を上げている。このオリジナル性こそ本領で、「ホンダジェットを例えるなら、空飛ぶスポーツカー」と銘打つ。価格は450万ドルだから、ざっと5億円。現在月産7機の増産体制へと勢いづいている。
これとは明暗を分けているのが三菱の小型ジェット機MRJ。当初はもてはやされていて、個人的にちょっとしたつながりがあった。10年前になるが、三菱飛行機の初代社長に高校同期の戸田信雄が就任したのである。同窓会誌にインタビュー記事を書いてほしいという注文で、同期という誼(よし)みで引き受け、品川本社を訪ねた。ややぎこちない対応であったが、帰り際に戸田は、MRJと入った野球帽を記念にくれた。高級素材で見た目もよかったので、しばらく愛用していた。そのMRJだが、5度にわたる遅延で、納入時期が当初より7年遅れ、注文の取りやめなどで危機に立たされている。戸田もそうだが東大航空工学科卒でトップを固め、官僚よりも官僚的な組織風土では、市場での競合が厳しい旅客機開発は難しい。三菱自動車もそうだが、重工分野に偏重し、国策会社に近い体質では、なにくそと頑張る創業者魂とは無縁で、ついトップのすげ替えで済ませてしまう。馬鹿野郎を連発しながら、しつこく課題解決に没頭する情熱や、少しは待ってみようという我慢が足りない。
ホンダをホンダあらしめたのは本田宗一郎ひとりではない。藤沢武夫がついていなければこうはなっていない。本田が技術をやり、藤沢が才覚で金をつくる。この二人三脚が不可欠だった。本田は藤沢に実印を渡し、どう使われたのか、その所在さえ知らなかったし、今期の売り上げがいくらかなど、ついぞ聞かなかった。組織のありようも藤沢の人間観が出ている。人間は、人間関係の内部摩擦で8割消耗してしまう。研究で一番怖いのは、頭のストライキだ。組織とは内部摩擦をいかに少なくするか、だ。その持論通りに、車づくりの肝である本田技術研究所を独立させた。「遊び」を持たせ、自由を確保させるためで、本田本体に図面を売る代わりに売上高から一定額を受け取るやり方にした。経営に血が通っている。遊びの延長にホンダジェットが生まれた。口を出さないホンダ流我慢の新事業育成術でもある。
またこんなエピソードもある。四輪車で本田が頑固に主張する空冷を「技術屋の本田になるのか、社長の本田になるのか」と迫って、翻意させた。藤沢は「企業はアートである。リズミカルで美的なものでなければならないし、人の心を感動させるものがちょくちょくなければならない」という。本人自身もたいへんな読書家で、歌舞伎を愛し、プロ並みに常磐津を吟じる。城山三郎の「本田宗一郎との100時間」(講談社)を34年ぶりに取り出した。実に面白い。
さて、この警告に注目しよう。「日本は目隠しをして走っている状態です」と、空き容量ゼロと主張した大手電力会社の基幹送電線の利用率を2割と切り込んだ安田陽・京大特任教授の弁である。日本の電力システムは自然エネを大量導入しても大丈夫なのだ(朝日新聞2月24日)。アメリカの高校生たちがトランプに銃規制を迫って反乱を起こそうとしている。教師にボーナスを出して銃を渡すという無知、理不尽に立ち向かう。新しい知性で未来を切り拓いていこう。