沖縄・辺野古を三里塚の二の舞にしない。賛成派にも、反対派にもこうした思いが浸透していると沖縄の新聞は伝える。辺野古移転に向けて、国家権力はすべての手段を投入している。そこに容赦はなく、図式はそっくり。阻止したいとする側がその理不尽さを非暴力で訴え続けるしかない。その無力さに耐えられるのか。もっと深く考えてみたいと、富山・ほとり座に12月27日足を運んだ。
「三里塚のイカロス」はドキュメンタリー映画で、農民たちと闘うために三里塚に駆け参じた若者たちを描いている。71年2月の強制代執行に対し、子どもと自分のからだを砦の杭に鎖で縛りつけ、「親子一緒に殺せ」と叫ぶ母親の姿を見た吉田義朗は、「おれ、三里塚行くわ」と京都の家を飛び出してきた。京都洛陽高校3年で卒業式目前であったが、いても立ってもいられなかった。その後地下要塞を作る穴掘りをしていて、落盤事故に遭って半身不随になってしまう。17歳であった。45年を過ぎて、車椅子でインタビューに応える吉田は本当に親不孝だった、と笑顔で話す。吉田以外にも自死を含めて多くがこの闘争で傷ついた。代島監督は、あの時代に区切りをつけなければならないと、クラウドファンディングで360万円を集めて作成した。没落していく否定性を見つめながら、爆音のナリタから何かを伝えている。
66年東京国際空港を三里塚に建設することを閣議決定。地元農民は空港反対同盟を結成し、当初あらゆる民主勢力と共闘していくとした。67年強制測量を阻止する行動に、2000人を超える機動隊が出現、座り込みで抵抗する農民を蹴飛し、ぶん殴って排除した。反対同盟は国家権力の冷酷を肌身に感じた。この時、共産党の集団は機動隊の「スクラムを解除しなさい」という警告に、「農民のみなさん、警察の挑発に乗って暴力を振るわないでください」と呼びかけ、自らのスクラムを解いてしまった。これが反対同盟と新左翼を強固に結び付けるきっかけとなる。翌年の集会で戸村一作委員長が警棒で殴られ大けがをした時に、怯まず機動隊と闘う学生たちに感動してしまう。風呂に入れ、酒や料理もふるまう中で、共同幻想ともいうべき連帯感が醸成されていった。とりわけ中核派は国家権力と闘う組織の象徴と位置付ける。新左翼各派の団結小屋はどんどん出来て、そこで寝泊まりし、自給自足を目指し農作業への手伝いも積極的に行っていく。女子活動家が反対同盟の若者と結婚するという例がいくつも出てくるようにもなった。
しかし国家権力は甘くはない。73年の開港は断念したが、78年に滑走路一本で部分開港する。その直前に管制塔の占拠破壊で一矢報いた格好になったが、実力闘争の限界が見えてくる。反対同盟は闘争の終息を模索するが、中核派は裏切りと断じて許さない。闘争収束派を支援する第4インターに内ゲバを仕掛ける。それは空港開発公団の土地買収責任者にも及ぶ。こちら側の暴力支配、脅しである。
映画では中核派で三里塚責任者を25年間務めた岸宏一が登場する。完全に失敗でしたね、と述懐するがその表情から、すべて引き受ける潔さも見える。岸は06年に除名され離脱するのだが、この3月に湯沢のスキー場で遭難して不明となっている。新左翼をイカロスと見立ててもいる。
重い課題がポツンと残されたようだが、菅官房長官が名護市に出向き、札びらを切る行状をみると、非暴力の対極にあるテロも究極の手段として許されていいという誘惑も抗しがたい。
正月だが、この重苦しさから逃げるわけにはいかない。イカロスとは蝋で張り付けた羽根が太陽に近付いた時にその蝋が解けて墜落する鳥をさすギリシャ神話である。沖縄のイカロスはどうか、アベ官邸がそうである可能性だってある。