友人の医師にこんなことをいっている。「体力も落ちてきているのだから、豪華客船の船医になったらどうだ。船旅を楽しみながら医療ができるというのは最高だと思う」。北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」は漁業調査船だったから、快適さからいえばとても比較にはならない。航海記は高齢富裕層の観察にならざるを得ないかもしれない。それはそれで厄介だし、アフリカ寄港となれば感染症にも神経を使うだろうが、リタイア前の選択肢としてそう悪い話ではないだろう。そんな冗談ともつかない話をしていたら、話は軍医に飛んだ。そういえば「軍医が見た戦艦大和」なる本があったな、ということになった。「戦場体験者の記憶と記録」を「月刊ちくま」に連載している保阪正康は、軍医や衛生兵は戦闘に直接に関わらないので想像以上に冷静で客観的に戦争を見ているという。その10、11月号からの引用である。
仏印に進駐していた時である。生きて虜囚の辱めを受けずという戦陣訓が軍医を悩ませた。ある部隊が敵の攻撃を前に撤退していく時に、重傷者を残していくわけにはいかないとなった。医者が殺す側となる。どうするか?青酸カリを飲ませるのだが、衛生兵に楽にさせる薬だといってわたしていた。重傷といってもまだ意識のある兵士に飲ませるのだから、服用を拒否するものには両頬を強く押すと唇が開くので、その時に投げ込むのだと指示した。
一方で軍医たちを一番困惑させたのは、戦場での神経症だ。ニューギニアでのことだが、ある大隊200名が連合軍に包囲され、孤立してしまった。止まって抵抗するか、包囲を抜け出すか、大隊長はその判断を迫られた。2日、3日と経るうちにこの大隊長は奇矯な行動を取るようになる。「お前はスパイだ」と日本刀で部下を切りつけ、「敵機」と口走り拳銃を乱射する。ついには無謀な敵基地襲撃を命じるようになり、若手将校から「神経衰弱で指揮不能」という診断書を書くように迫られた。若手将校は幽閉状態にして、それでもわけのわからないことをいうので、縄で縛り上げ、誰が見ても正常な感覚を失っていることがわかる状態にしてしまった。また、自殺する例も数え切れないほどあった。その原因の多くは精神状態異常の上官などによる、すさまじい私的制裁である。あまり表立っていないが戦場特有の精神異常で、とんでもない戦闘がおこなわれたケースもいくつかあるという。
もうひとつ悩ませたのが、性の問題である。軍隊にとって最大の敵は性病で、100人の兵士がいて15人の兵士が性病に患ったら、この部隊は全滅したのと同じ。特に淋病は瞬く間に部隊に広がる。軍の病院は第一病棟が内科、第2病棟が外科、第3病棟が性病科となっており、性病患者は「三棟送り」といわれていた。それほど多かったのである。慰安所の設置を決めるのは主計将校で、軍医には女衒が集めてきた女性の健康管理(局所検査を含め)が仕事となる。日本軍が南方のあらゆる地域に進出したがどれほど性病に悩まされたかということだ。伝染を恐れてその種の兵士たちだけの病床テントをつくるなど戦闘よりも多くの膨大なエネルギーを割かねばならなかった。
軍隊と呼ぶ組織のおぞましさを挙げればキリがない。自民党は選挙公約で国防軍の保持を明記する。ここまで想像できているのだろうか。
蛇足ながら軍医を養成する防衛医科大学校を紹介しておこう。受験料も学費も無料で、毎月の給与と年二回のボーナスが支給される。全寮制で自宅通学は不可。6年間の学業を終えて、卒業後に9年間自衛隊員として勤務すれば、一切の学費の返却は不要。偏差値は約70で、東大理3よりも低い。
もう一度生まれるなら、防衛医大を出て、海上自衛隊で海上勤務を9年やって、その後船医を目指す。軍医から船医への転身だが、そんな人生もあっていい。防衛医大出の作家を目指すのだ。
軍医から見た戦場