死者よ来たりて

涙が流れるのをこらえることができなかった。前にしたふたりは、亡くなった友人の奥さんと長男である。友人の葬儀は昭和62年だから、22年ぶりの再会。郷里・富山から遠く離れた浜松のお寺での、小さな葬儀だった。遺されたふたりの男子中学生がすすり泣き、運び出される棺に奥さんはすがりつくように泣き叫んだ。友は享年42歳、偉丈夫がやせこけるまでになっていた。10月17日、富山の寿司屋でのこと。寿司もビールも進まず、自然と友の話に及ぶ。知っていたつもりだが、想像を超えた過酷な試練に立ち向かっていたことに、いまさらながら打ちのめされた。
 胃がんでの全摘手術をしたのが31歳の頃。それから、さほど年月を経ていない日曜日であった。狭山の社宅から新宿に出て、久しぶりに家族そろっての外食である。帰ろうとした西武新宿駅の構内で、今までにない腹痛が走った。腹が膨れ上がる。とても耐えられそうにない痛みで、トイレに駆け込むも、しゃがり込むこともできない。救急車を呼んだが、大東京ではなかなかやって来ない。幼子ふたり(その頃は5歳と3歳)を抱える妻に「もうすぐ救急車は来る。お前達は帰っていろ」。有無をいわせない命令口調でいうので、従うしかなかった。救急車はやって来なかった。友は、その激痛をこらえて、狭山の社宅に辿り着く。家に倒れこむやいなや、激しい嘔吐が吹き上げるようであった。社宅で呼んだ救急車はやってきたが、専門医がおらず、救急病院で痛み止め対応だけだった。妻ははたと思い出し、浜松にいる夫の実兄に電話する。医師でもある兄は「腸閉塞だ。急がないと危ない」と、埼玉県立病院の知り会いの医師に連絡をしてくれ、担ぎ込む。それから、10時間以上かけた開腹大手術で、辛うじて命だけは取り止めた。その晩は幼子ふたりだけで夜を過ごしている。この時に、肺にも転移しているのが発見され、切除した。
 予後の生活は危ういものとなった。病院を経営する浜松の兄のもとでの生活しか選択肢はなく、住友建設の雇用も切れて、やむなく兄の庇護を受けいれた。その頃からである。夫の子供たちへの虐待に近いせっかんが日常化していった。特に長男に対してである。そういえば、見舞いを兼ねて訪ねた時「手術後、精神的なコントロールが効かなくなるんだ」と呟いていた。殴る、蹴るのあと、はっと気がついて、涙を流しながら、抱きしめて「ごめんな」という。心に大きな傷を負わないはずはなかった。
 生来の生命力は10年持ちこたえることになる。最期は、いつもの長いトイレから出た後だった。その時も、中3になっていた長男にトイレを譲った直後で、ふらっとして「おい」と声を掛けて倒れ込み、そのまま逝ってしまった。死因は心筋梗塞とされた。
 「そんな父でも好きでした」目の前の長男はいう。「残された体力で、土木の技術士に挑戦していました。夢は技術士事務所を持つことだったのです」遺された奥さんは、長い苦節を思い返すように言葉にする。
 さて、その晩である。気持の持って行きようがなく、ウィスキーをあおっていると、「死者よ来たりて、我が退路を断て」とのフレーズがよぎった。昭和43年、日大全共闘の立看板に大書されたものだ。この64歳には、退路と呼べるものはない。進んでいないのだから。むしろ、あるべき位置さえ定かではなく、退路も進路もない堂々巡りの時間つぶしの、穀つぶしよ、と自嘲していると、死者の目は鋭く光ったようにも見えた。「そんなつまらない人生を送っているのであれば、俺に寄こせ!ばか者よ!」。
 高校時代に机を並べた時、「大学への数学」がお気に入りの参考書で、「おい、こんな解き方があるぞ」と得意気に話しかけてくる顔がふと浮かんだ。舟木一夫の「高校3年生」を歌っては、涙を浮かべてもいた。
 思えば、遺された者といえば、みんなそうである。死者を持たないものなどいないのだ。そんな自明のことに、はたと気がつく夜でもあった。「死者よ来たりて、我が愚を断て」か。

© 2021 ゆずりは通信