「日本病」

この歳にして、自己なるものの不確かさを想う。1個の受精卵から始まって、2個に分裂することを40回以上繰り返し、60兆個の細胞で人間となる。これらの細胞も日々30億個の遺伝子DNAの指示に従って分裂を繰り返す。しかし必ず1個か2個の変異が紛れ込む。これらの変異は紫外線や放射線で増えるし、ウイルスや細菌に感染しても増える。それらが重なると分裂の回数が増え、異常に増殖してがんになる。つまりこれが生命活動であり、そこに自己なるものが乗っかっているだけなのだ。不確かさはそこから来ている。
 この歳になっても抗生物質を避けるのは、変異なる細胞をできるだけ少なくしたいからだが、これだって家畜に大量に用いられているので、自ずと限界がある。ペニシリンという最初の抗生物質発見以来、抗がん剤にいたるまで多くの抗生物質が出されてきたが、これに抗する耐性菌が生み出され、いたちごっこは終わることはない。日本経済も然り。失われた20年の間に、デフレ脱却と称して金融緩和策を幾度となく繰り出すが、日本経済の体内には強固な耐性菌を蓄えられている。
 この現状を憂える「日本病」(岩波新書)は経済学の金子勝と生命科学の児玉龍彦の共著である。進行がんや抗生物質耐性の病原菌感染を例に考え,バブルとショックの繰り返しのもたらす未来を予測しているのだが、どんな制御もくぐり抜けようとする耐性菌と金融システムはもうコントロールが効かない限界にきている。
 果たして日本病からの出口はあるのか。政治単独ではポピュリズムと情報操作主義によって全く機能しなくなっている。経済単独では麻薬中毒のように痛みを麻痺させる金融緩和に依存するしかない思考停止と後戻りできないという恐怖だ。これでは格差を固定し、金利上昇によるパニックに突き進むしかない。科学単独では多元的な理論を並立するだけで、価値観に統一的な見方は提供できない。歴史全体をバイアスなしに経験としてとらえた上で、鍵となるのは現場主義、当事者主権の予測の科学だというが明確ではない。大胆に自分に引き換えて、具体策をイメージしてみた。
 まず、この不確かな自己をしっかりと認識することであろう。科学的予測ではなく、実感的な予測となるがいたし方ない。まず、生命を維持する衣食住を清貧にして安全なものとする。抗生物質をできるだけ用いず、体内の常在菌を活き活き活動させるイメージで生活する。カネを否定するわけにいかないから路地裏資本主義でグローバルに対抗していく。そんな生活現場に依拠して、当事者主権として、自分のことは自分で決めるから、国家はこの自分にどんなサポートができるのか、それを提示してくれ。とにかく邪魔をするな、自由を侵すな、何よりも人間の尊厳を大事にしろ、と主張する。この主張も逃げ隠れせず、堂々と行う。
 日本病の底に巣くうのは恐怖である。貧困に陥る恐怖、職を失う恐怖などなどひとりひとりが怖がっていては、合成の誤謬となり、その結果は個々の予測とは大きく違うものになっていく。日本病は、即アベノミクスといってもいいが、その行き着く先は大きな経済破たんとなり、それがファシズムと結合していくことは間違いない。高市総務相は政治的公平性を欠けば、放送局に電波停止を命じると言及したが、ついにここまで来たかという思いである。
 参院選をにらんで「ミナセン」(みんなで選挙)なる運動が広がっている。安保法制の廃止を目指す市民グループの全国連絡会だが、ちょっとしたきっかけで政治は大きく動く。小さな声でもつないでいくことである。市民選対勝手連が澎湃と地域で湧きあがってほしい。

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