旅する巨人、宮本常一

伝承することの大切さを、みんな忘れてしまっている。前々回の「鬼太鼓座」の続き。宮本常一は、明治40年山口県周防大島の生まれ。瀬戸内では、淡路島、小豆島に次ぐ島だ。戦前、この島の多くが、朝鮮、台湾、ハワイなどに出稼ぎに出かけていた。祖父は旅から旅を渡り歩く世間師(しょけんし)で、この祖父の寝物語が民俗学者・宮本の揺籃だった。昭和56年73歳で没するまで、ほとんどが旅で4000日、16万キロに及んだ。ズック靴を履き、汚れたリュックにコウモリ傘を吊り下げて、ただひたすら歩き続け、民家に泊めてもらった。めったに外の人間が足を踏み入れない辺境、名も知れぬ小さな島々。「あんたの前にここにきたのは、江戸の菅江真澄という人じゃった」という具合だ。そこの古老たちの声に耳を澄ませた。宮本はノートを取ることはなかった。一言も漏らさず記憶にとどめ、宿に帰って刻み込んだ記憶を一心不乱に書きとめた。興味の赴くところ、口承文芸から、生活誌、民俗学、農業技術から農村経済,はては塩業史、漁業史、考古学ととどまることをない。
 民俗学に足を踏み入れるきっかけとなったのは、大阪の逓信講習所に進んだ後の郵便配達業務。大阪の雑多な零細な人々の暮らしを目の当たりして、そこに歴史があることを知った。夜間の高等師範を出て、小学校の教員となり、その交友の中から、民俗学の草分け・「遠野物語」の著者でもある柳田国男に連なった。もちろん師ではあるが、紋付、袴に白足袋をはき、農政官僚、朝日新聞論説委員の肩書きで一流旅館にしか泊まらなかった柳田とは異質な存在である。
 宮本の観察眼は、一つの風景から膨大な情報を読み取る。ある野菜を植えられた畑から、その集落の経済のレベル、その集落の歴史的変遷が的確にいい当てることができた。代表作は「忘れられた日本人」だが、わが読者には「土佐源氏」だろう。昭和16年土佐山中の梼原(ゆすはら)という村で出会った盲目の乞食の一人語り。若い頃から馬喰をつづけ、女と牛のこと以外何も知らんと断った上で、数奇な身の上話を始める。「女のあそこは、芍薬か牡丹のはなびらのように見えたもんじゃ」、ある時おかたさまと呼ばれる身分の高い女性に心底惚れるようになった。牛の種付けが終わると、牡牛が牝牛の尻を舐め始めた。おたかさまは「牛の方が愛情が深いのかしら」。「おたかさま、人間もかわりありません。わしなら、いくらでもおかたさまの・・」。おそらく荷風を超える作品になったとか。
 いまひとり、渋沢敬三。この宮本にして、彼との出会いがなければこうはならなかった。金融王・渋沢栄一の孫。戦中から戦後にかけて日本銀行総裁、大蔵大臣を務め、戦後未曾有のインフレに悪戦苦闘した。バンカーの半面、本人も研究したが民俗学を中心としたパトロンであった。東京三田の屋敷に、郷土玩具や民具を蒐集したアチック・ミューゼアムを作り、これと思った人材を集めた。すべてポケットマネーである。昭和14年、宮本もそこのメンバーとなった。結核を引きずりながら、その時からすさまじい旅が始めた。未来社刊の「宮本常一著作集」は全43巻。
 施して語らず、受けて忘れず。資金を提供する方も、受ける方もかくあらねばならない。特にパトロンに不可欠なのはこの品性。渋沢敬三は二人のマルクス経済学者である向坂逸郎、大内兵衛の面倒もみている。また「タテ社会の人間関係」を著した中根千枝がインドの民族調査に行く時、ぽんと調査費の足しにと5万円を渡している。昭和28年、KDD社長時代のことである。
 日本人ほど忘れやすい民族はないといわれる。自分たちはどこから来たのか、それを知らずに進むことはやはりできない。しかし、いざ知ろうとすれば、真贋の見極めがつかないように、ゆがめられた歴史が巧妙に入り込もうとしている。

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