7月27日午後1時過ぎ、富山市民病院緩和ケア病棟に中学以来の友人・澤木邦夫を見舞った時である。「いま息を引き取ったばかりなが」と奥さんが涙をぬぐいながら「いい顔しているでしょう。よく頑張ったわいね」と声をふりしぼってくれた。アスベストによる中皮腫と断定されたのは、平成24年11月。きっかけはこれも中学同期の古屋医師の診断で、富山市民病院で精密検査をすぐに受けろ、というアドバイスだった。アスベストに思いあたることはないかという質問に、そういえば入社(消火器メーカー)間もない頃、工事現場に入り、きらきらしたガラス繊維の舞う中で作業したことを思い起こした。何と潜伏期間は40年以上に及ぶことになる。
こんな厳しい現実でもすぐに受け入れるのが澤木らしいところで、開発されたばかりの強烈な抗がん剤にも淡々と挑戦した。これほど副作用に強い人も珍しいと担当医に感心され、呑み会にも積極的に出るようにし、車椅子ながら次女が暮らすオーストラリアにも出かけた。「おれの人生はラッキーだった」が口癖で、高度成長時代の恩恵を独り占めしたような営業実績を残し、あの澤木さんの富山営業所という伝説を作ったのである。したがってアスベストのことも、被害者という意識は微塵も持っていなかった。
小生とのつながりが再スタートしたのは、2003年冬にたまたま出かけた富山からの済州島ツアーに偶然澤木夫妻が参加していたこと。それから3人で、北欧、ニュージーランド、韓国2回、由布院&博多山笠と、誘えば二つ返事で行くという感じで楽しんできた。
そして因縁といえば、二人は共に昭和20年8月に朝鮮で生まれたことだ。澤木は8月15日に中国国境に近い北の新義州で、小生は8月30日に南端といっていい光州で、この南北の差が引き揚げで大きく明暗を分けることになった。小生は生後45日で帰国を果たし、澤木は何と1年余も飢餓すれすれの難民収容所生活を送り、ようやくの思いで帰国したのだ。といっても赤ん坊ゆえに記憶にはないのだが、澤木の両親は、あの時の苦労を思えば、戦後の物資のない生活など屁でもない、といつも口にしていたという。
そんな悲劇を再確認させてくれたのが「満洲難民」(幻冬舎)である。一気に読める。昭和20年8月9日、過酷な対独戦に勝利を収めたソ連軍は、矛先を東の満洲に向け、侵攻を開始した。なだれ込んだ兵員は170万、戦車と飛行機はそれぞれ5000を超える大機動部隊である。関東軍は南方作戦へその大半を移動させており、なす術はなかった。満洲や朝鮮に取り残された在留民間人150万人はどうなったか。五族協和・王道楽土を掲げた大日本帝国は、帰国しても食料も住宅も不足するからと現地定着方針さえ打ち出し、襤褸切れのように捨て去ったのである。満洲からの引き揚げは特に凄惨を極め、それもソ連軍が進駐した38度線以北は移動がままならなかった。厳寒の地で、バラックの収容所ですし詰めになって、食料はなく、ノミしらみに悩まされ、乳幼児は栄養失調で次々と亡くなっていった。地獄の様相である。満洲からの引き揚げでは約30万人の死者を出したといわれる。
この国の持つ無責任さを考える。国民の生命と財産を守る、在外邦人の生命を守るための自衛隊の海外出動と大見得を切られると、このことを思い出さずにはおれない。首相が絶対戦争にはならない、絶対原発事故は起こらない、絶対に辺野古移設しかないと大声を挙げた時こそ、愚民策に酔っている底の浅さが見えてくる。
思い惑いながら、701回目に手を染めてしまった。戦後70年にして70歳、もう語るべきこともないのだが。
「満洲難民」