「星のあひびき」

歌仙を巻く、という句遊びがある。連句といって大体3~4人が集まって、575の発句を受けて77と脇が続き、また575,77とつないで36句で区切りとする。参加者を連衆といい、その場を座、進行役を捌き手と呼ぶ。
 98年10月11日山中温泉「かよう亭」に座をもって、丸谷才一、大岡信、井上ひさしが連衆となり、歌仙「菊のやどの巻」を巻いている。捌き手は大岡信。奥の細道300年記念と銘打たれて、芭蕉が山中温泉に滞在した時に、金沢の北枝と芭蕉、曽良の3人で巻いた「山中三吟」にちなんだ。才一の発句が「翁よりみな年かさや菊のやど」。脇が大岡で「また涌き出でし枝の椋鳥」。第3がひさしの「名月に道具の月を塗り足して」。温泉宿だから湧き出でしを連想し、みな集まるから喧しい椋鳥というへりくだりとなり、椋鳥から旅烏の一座の舞台にある月になる。こんな具合に合わせたり、受けたり、飛躍したりと進んでいく。遊びであるがゆえに、この3人くらいの知的水準でないと座が持たない。この歌仙なるものを知ったのは、坂東三津五郎のひとり芝居・こまつ座「芭蕉通夜船」を観たからである。
 さて、この丸谷才一が逝った。87歳だった。博覧強記に裏打ちされた深い教養とユーモア、文学界といえば彼であった。彼がいなければ、村上春樹がこれほどまでになっていたかどうか。10年前、「輝く日の宮」で泉鏡花賞を受賞、金沢で開かれたその授賞式で彼の挨拶を聞いた。選考をした五木寛之が、丸谷の才能、力量はまさに仰ぎ見る存在であり、選ぶのが恐れ多いという表情だった。文学青年がそのまま文学老年になったという感じで、自著「文学史早わかり」からの資料(A4コピー2枚)を全員に配布したのには驚いた。まるで講義が始まったようで、紀貫之、藤原定家、正岡子規を説き、森鴎外、泉鏡花をして文語体から口語体への転換を成し遂げたといい出すと、一部の人はメモを取り出す。一瞬大学の教室かと見まごうほどであった。
 丸谷が嫌ったのは、やたらに暗くて深刻ぶる態度、じめじめと湿った感情的な文章、偏狭なまじめさやえん世的な世界観。いたずらにイデオロギッシュな態度やファナティックな主張も遠ざけていた。
 いま手にしているのは随筆集「星のあひびき」(集英社)で10年に上梓された。「あいびき」としないのは歴史的仮名遣へのこだわりであろうか。真骨頂はエッセイや書評に見られるのではないかと思っている。何となく買っていたがぺらぺらとめくる程度であった。積ん読である。追悼の意味で読み直してみた。最後の章は「わたしは彼女を狙ってゐた」で、書評をテーマとして米原万里を褒めちぎっている。書評はその国の文化のバロメーターであり、自分が最も力を注いできたといってはばからない。毎日新聞の「今週の本棚」では書評全般の顧問格であった。書評者が男ばかりでは困ると人選に困っていた時、米原万里の才能に気付き、狙っていた。しかし読売の文化部が有能かつ機敏でその読売に抜かれてしまった。本をおもしろがる能力、褒め上手であること、そして1冊の本を相手取るのではなく、本の世界と取り組んでいることが大事という。本は単独の存在ではない。何冊も何十冊も、いや、何万冊も何十万冊もの本が群れをなして宇宙を形成している。書評はその宇宙を見なければならない。万里はそういう資格をきれいにそして十分に持ち合わせていたという。
 ここで白状しなければならない。前回の「弱いロボット」は医学書院からの書評依頼であった。全くその資格、能力がないのに安請け合いをしてしまったことになる。申し訳ないと謝るしかない。
 ひとりが亡くなることは一冊の百科事典を失うことだというが、丸谷才一の場合はその比ではない。

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