365日24時間の対応が求められる在宅医療は、とても緊張が強いられる。患者との医療方針を守るために救急車を呼ばない。そのために枕元には在宅医の電話番号が貼られている。また、多職種が関わるチーム医療なので情報の共有はもちろん、志の共有まで踏み込む。超高齢化社会は病院では死ねないのが常識で、在宅医療が欠かせない。コロナ禍はこんな趨勢に更なる逼迫と混乱を持ち込んでいる。そんな時に、とんでもない衝撃的な事件が起きた。1月27日、埼玉県ふじみ野市で起きた在宅医殺人事件だ。
「線香の1本もあげられないのか」と恫喝されると、出かけないわけにはいかない。密室になるリスクは当初から予見されていて、介護士、看護師など女性ひとりで相対するケースも多く、実際にパワハラ、セクハラが散見されている。前日死亡の92歳の母親を「生き返るかもしれない」と心臓マッサージを強要し、拒否するや否や散弾銃の発砲では、防ぎようがない。66歳容疑者の供述は「母が死んでしまい自殺しようと思い、自分ひとりではなく先生らを殺そうと考えた」。被害妄想は極限に達し、拡大自殺を目論んだのは間違いない。富山県警は2月18日の県議会で、訪問診療に警官同行も可能だと答弁するが、信頼関係が基本のところにそんな診療が成立するわけがない。小手先の対策で解決できる問題ではない。要は、患者及び家族と密接にコミュニケーションできるスタッフを拡充することである。どんな危険があるか予見できる。
この事件が明らかにしたのは、鈴木医師は約300人の訪問患者がいて、そのほとんどが終末期医療で、すぐに代わりの医師を探さなければならないこと。在宅末期という患者も少なくないはずで、痛みのコントロールは待ったなしである。
そこで、犠牲になった鈴木純一医師の日常を想像してみた。訪問患者300人を抱えるということは、原則月2回の訪問なので月600回の訪問で、1日にして30件。正月でもカップヌードルでしのいでいるというが、食事に割いている時間もないハードさ。44歳の若さと在宅に賭ける情熱で辛うじて支えているといっていい。
訪問診療を受けていた出口研介が鈴木医師への感謝の言葉を絞り出している。奥さんが卵巣がんと診断され、長年闘病していたものの、病状は改善しなかった。末期がんと覚悟して終末期を過ごす病院も決めていたが、入院中、痛み止めに強い薬を使うと、悪夢を見て自ら点滴の針を抜いてしまうようになった。そのままでは身体を拘束される可能性もあり、在宅を選択した。地域で相談する中で出会ったのが、鈴木医師。15年春のこと。鈴木医師の「何を望みますか」に、妻は「娘が4カ月海外に留学する。帰ってくるまで頑張りたい(生きたい)」と答えると、「分かりました。僕らは精いっぱい頑張ります。一緒に頑張りましょう」と励ました。その言葉通り、体調が悪化すると鈴木医師は夜中でも自宅に駆けつけ、看護師チームと連携を取りながら見守ってくれた。安心した妻は、痛みのために横になることもできなかった状態から体調が改善。自分で水を飲み、友人らと長い時間話をすることもできた。妻は鈴木医師たちを「現代の赤ひげ軍団だ」といって心から感謝していた。約5カ月間、自宅で大切な時間を送り、65歳で旅立った。
この事件が在宅医療のブレーキになるようなことがあってはならない。