日常の大半は書斎の机に向かっている。就職して数年経った頃、ボーナスで大型書斎机を買った。書斎を持つのが夢でもあったのだが、富山の中央通りにあった柴田家具店で求めた。本来なら老舗の米三にすべきだが、若い柴田社長に賭ける思いもあった。老舗の真ん前の環境で、店の大きさも5分の1くらい、太刀打ちできるわけではないのに意欲的な新聞広告を出していた。家具業界が日を置かずに、想像以上の窮状に追い込まれようとは想像できなかった。団塊世代が結婚時期に差し掛かっており、箪笥などの結婚家具需要が期待できるように見えた。しかし現実は甘くなく、郊外での業種転換を模索していたが存続は覚束なかった。今はもう存在しない。目の前の机に触れながら、50余年過ぎても、何の不都合もないことに家具業界の難しさを思う。家具の買い替え需要などは全くない上に、人口が減り続けているのだ。追い打ちを掛けるようにコメリが全国を席巻し、少ない家具需要を巻き上げていった。トラックに紅白の旗を巻き付けて、結婚道具を運び、親戚近所に箪笥を開き、お披露目をした風習は遠い昔のことである。
さて本題だが、最近机に向かっても、ぼんやり無為に過ごしていることが多くなった。新聞や雑誌を手にしても、眺めるだけで、とんと頭に入っていない。机の半分を占めるデスクトップにも、最近はめっきりメールも減ってきている。これは本格的な「老い」に入ったということか。
また最近、パソコン教室を展開する人と面談した。私のスマホを見て「10年近く使っていますね。思い切って買い替えてください。家のパソコンもそうです。自分に投資しないと使いこなせません」。そんな挑発を受けて、80歳にしてこのまま引き下がって、負け犬になってはならないと思うようになった。当然、新調する。
初めて「老い」を意識したのは、作家・黒井千次の「老いるということ」(講談社現代新書 06刊)を手にした時だが、予想に反して、収まろうという人生にこんな挑戦状を突きつけてきたのである。「教養と人格を持った女性の性感こそ本当の性感であり、そのつつしみ、その抑制と秘匿の努力にもかかわらず漏れ出て、溢れ出る感動が最も人間的なのではないか?」。充実した性の手応えを味わうには、お互い60年近い年月が必要なのだ、と。年上であっても、リスペクトを添えてこちらも教養と人格でもって迫るべきなのだ。
真面目な「内向の世代」とされた黒井千次がこの一文を紛れ込ませたことで、「老い」シリーズとして次々と読者を獲得してきている。読売新聞文化部と中公新書編集部の目利きの仕事であるが、素晴らしいヒットである。
わが貧弱な老いたる書斎だが、教養と人格を鍛え、老いに立ち向かうエネルギーを与えてほしい。思わぬ出会いと果実を生み出してほしい。