ふと女に生まれていたら、と思う時がある。寒卵という季語で句をめぐらしていたら、浄き卵(きよきらん)と詠んだ短歌があったぞ、となった。卵をタマゴと読まずに、卵子のラン、つまり女の生殖器官に宿るそれである。もし女と生まれたら、初潮を迎えた時から、そのことを意識せずには生きてはいけないだろう、と想像する。卵巣の中で卵子が生み出され、排卵し、受精卵とならずに経血とともに流し去る。これが毎月繰り返される虚しさ。まっとうに遂げさせてやることができなかった痛みみたいなものを一生抱え込まざるを得ないのではないか。そんな想像をより強く確信させたのが次の歌に出会った時である。
「処女(おとめ)にて身に深く持つ浄き卵秋の日吾の心熱くす」。1926年生まれの富小路禎子(とみのこうじ・よしこ)のものだが、深く刻み込まれた。名の通り旧華族の子爵の出だが、戦争を機に没落し、最愛の母を病で失い、凡庸で無気力な父を支える生活を余儀なくされる。亡母の「急ぎ嫁くな」という戒めもあり、未婚を通して75歳で急逝した。彼女を支えたのは、生きてさえゆけるのなら、とことん自分の表現に賭けるという捨て身の強さである。この世こそ地獄、ならば鬼になって生きる。そんな気迫で、房総での女中見習いも、歌に詠み込んでいる。
この歌人の生涯を詩人の高橋順子がまとめ、歌人が亡くなる前年に「富小路禎子」(新潮社)として刊行している。書棚から引っ張り出してきたのだが、驚くような発見があった。高橋順子の連れ合いは69歳で急逝した作家・車谷長吉(ナンバー696参照)だが、このふたりを結びつけたのがこの「浄き卵」だった。82年の秋、朝日新聞・大岡信のコラム「折々のうた」でこの歌を知った車谷は魂を揺さぶられたのであろう、この切り抜きを大事にしまっておいた。小説をなりわいにしようと意を決して上京した時に、真っ先に探し求めたのがこの歌が載っている処女歌集「未明のしらべ」で、大枚8000円を惜しまなかった。新潮社の編集者がこれを知り、この数奇な運命を生き、歌を生きている女性歌人の評伝を執筆したらどうかと高橋に勧めたのだが、存命中であり難しいと渋っていた。これを新潮の編集者から聞き知った車谷がこの1冊を高橋に差し出して、背中を押したのである。車谷にもこの歌が響いていたのかと思うとうれしい。そんなことで彼の遺稿集「蟲息(ちゅうそく)山房から」(新書館)も手許においた。車谷48歳、高橋49歳で結婚した二人は、ふたりで句会を開いている。
思うに、巧拙は問わず、またプロアマを問わず、それぞれに表現手段を持って生きることではないか。もがきながら生きる自分がいて、その生き様をみる自分がいる。それを言葉に残していく。言葉に限らなくても音楽でもいい。生きる実なのか、表現する虚なのか、その虚実のあわいを揺れながら生きていくのがヒトなのではないか。そう思えてきた。詩人・茨木のり子も富小路禎子と同年生まれと知って、ますますその感を強くしている。
はてさて、女に生まれたらの結論だが、想像妄想に止めおくべきで、浄き卵に心揺さぶられる男がいて初めて女の表現が染み透っていく。
蛇足ながら付け加えておく。富小路禎子は女中見習いの後、日東化学工業に職を得て、55歳の定年まで34年間勤めた。
浄き卵