「トレイシー」

「日本とは何か」を問うことは、「アメリカとは何か」を問うことである。藤原書店から出ている季刊「環」7月発行の特集テーマだが、なるほど鮮やかな視点だ。アメリカの歴史学者であるチャールズ・ビーアドを軸に、と副題にあるが、同書店刊ビーアド著「ルーズベルトの責任―日米開戦はなぜ始まったか」を事前に読まなければならない。ちょっと荷が重いので、今回は文庫本となった「トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所」(講談社)で、アメリカとは何かを探ってみた。10年4月単行本として刊行されているので、2年半遅れの論評となるが許されよ。著者の中田整一は41年生まれ、NHKプロヂューサー出身の作家だ。
 得体の知れない敵国、日本を丸裸にするため、アメリカはすさまじい執念とエネルギーを費やし極秘に捕虜尋問センターを作った。サンフランシスコから車で1時間半、バイロン・ホットスプリングにある赤煉瓦の建物がそれで、暗号名でトレイシーと呼ばれた。43年から2年7ヶ月で、ここトレイシーに日本人捕虜2,342名が移送されている。戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」と刷り込まれた日本軍人がどうして、これほどまでの情報をしゃべったのか。
 アメリカは皇居の建物の配置をこと細かくしるした図面を持っていた。それだけではない。スケッチは1番から1104番まであって、そのほとんどが日本本土内の軍事基地、重要工業地帯及びその工場分布、さらには工場内部の機器の配置までが網羅されている。それらの情報は日本兵の捕虜を尋問して得られたものだ。空襲もほぼピンポイントで施設の中枢に向けて行われていたのである。
 船でサンフランシスコ湾から金門橋の下を通るが、見上げると6車線に豆粒ほどの自動車の往来が絶えない。芝生の庭に瀟洒な家々。捕虜たちは一様に驚きの表情を隠さなかった。そして、隠語で「ゲスト」と呼ばれた捕虜たちに巧みな心理戦が開始された。清潔は部屋、真っ白な厚いマット、大きな部屋に3段ベッド、食堂も広く豊富なメニュー。拷問で殺されるかもしれないと覚悟をしていたのに、想像もしない、見違えるような待遇である。
 尋問する側も単に日本語をしゃべるだけでなく、ワシントンにある陸軍情報部から収集すべき具体的な情報が絶え間なく尋問官に送られていた。情報を引き出しやすくする環境も整えていたのである。例えば、富山県高岡市出身の斎藤次郎少佐は、ジアスターゼを発見した高峰譲吉の従兄弟だといい、親戚が生存しているかどうかを知りたいというと、息子エベン・タカシ・高峰を探し出している。加えて、早く戦争を終わらせるのが自らの役目ではないか、と思い始める。先に敗戦となったドイツ大使の大島浩も捕虜となるのだが、こんな時代錯誤のトンチンカンが三国同盟を導いていたのかと慄然とさせられる。
 さて、アメリカとは何かだが、これほどまで情報にこだわる国がどうしてベトナムで、イラクで、アフガニスタンでこうも同じ失敗を続けるのか不思議でならない。政策決定のメカニズムの中で、何か不純なものが入り込むのだろう。いろんな視点から見ていかねばならない。日米同盟強化の大合唱に惑わされてはいけない。
 ここからはいつもの余談。著者の中田整一だが、NHKを辞めようと思った時、「あなた、一作を書くまで絶対に辞めたらだめよ」と励ましたのが亡き辺見じゅんだったと書いている。短歌誌「弦」での辺見じゅん追悼号だが、すべては彼女から始まっているといい、幻戯書房から出した「満州国皇帝の秘録」の執筆を勧めてくれたのも彼女で、毎日出版文化賞を得ることができたとも。

© 2024 ゆずりは通信