目の見えぬ座頭300余人の群れが、断崖絶壁の難所から次々と冬の日本海に突き落とされていった。江戸期の安永元年(1772年)東北地方大飢饉の年だが、津軽の座頭たちが秋田藩への集団移住を企てた。津軽に居たんじゃもう駄目だ、喰えないどころか殺されてしまう。というわけで雪の五所川原を後に、峠をよじ登り、坂道を転げ落ち、大難所大鉢流山に差し掛かる。ようやくに登り終え、その絶壁の下りには導き綱がつながれていた。しかしこの導き綱こそ、地獄への誘導であった。事前に察知した秋田藩はこんなやっかいな連中を引き入れるわけにはいかないと、日本海の海底に綱を垂れさせたのである。誰一人助からなかった。
5尺1寸の杖を持った盲人座頭の群れが舞台で異様にうごめく。井上ひさし演劇ワールドの最高峰「薮原検校」の開幕だ。6月26日、世田谷パブリックシアターにいそいそとでかけることになった。前口上で「めくら」は差別用語とするNHK,朝日ジャーナルを、この薄っぺらインテリ野郎め、とその偽善を圧倒的なエネルギーで木っ端微塵にしていく。
農業、商業といった生産手段から疎外された盲人達はやっかいものと殺されかねない存在でしかなかった。そんな歴史の転機となったのが、平安初期に仁明天皇の皇子で人康(ひとやす)親王が失明し、隠遁した時に世話をするため集められた盲人達が親王に琵琶や管弦、詩歌などを教えたこと。その功績で官位が与えられ、その元締め的な存在として「当道座」が生まれた。江戸時代は幕府公認の自治組織で、検校、別当、勾当、座頭など73もの階級があった。芸だけではなく、蓄財することで登りつめていく制度で、順次、官位を購入して最高位まで総額719両の大金を要した。検校は旗本、総検校は大名と同様の格式で、官金で生活が保障された。座にはいると、按摩、鍼灸、または琵琶、三味線、筝といった音曲などの職を修行することになり、5年過ぎて昇進を果たさねば、座落という制裁が課せられた。異形の者、薮原検校を主人公に、井上ひさしの戯曲が悪の世界を縦横無尽に駆け巡る。
そして、野村萬斎演じる薮原検校が舞台で躍動する。悪の限りを尽くして検校までのぼりつめるのだが、悪の根源エネルギーはやはり性欲。師匠の上さんとも不義密通、それを知っても破門ができない。天賦の素質か、やたら滅法の声のよさ、節回し切々として独創的、その人気は師匠を超え、その奥浄瑠璃語りに村人は熱狂した。とにかく稼いでくれるのである。こうして貯めた師匠の金を上さんに、師匠殺しをそそのかし、横取りしてしまって江戸へ出奔する。その江戸で初代薮原検校につく。そこでも高利貸しの取立てで頭角を現す。幕府は当道座の高利貸しを黙認していたのだ。金で官位が買えるという制度だから、すべてが金次第となっていくのはやむを得ない。ここで再度の師匠殺しを行い、遂に二代目薮原検校となるのだが、そうは問屋がおろさない。殺人が露見して、市中引き廻しの上獄門となり、千住小塚原の獄門台にその醜い首が晒され、見えない目はカッと見開かれていたそうだ。
劇中に塙保己一が登場する、薮原検校とは対照的で、鍼、按摩、音曲芸能が上達せず自殺も考えたが、学問の道を歩み始め、「群書類従」の大部を編纂した。これは盲人にしかできない。目が見えると書き留めていくしかないが、すべての書が保己一の記憶の中に収まっていき、コンピュータよろしくその記憶から引き出され、整理されていった。この保己一が当道座改革の見せしめに、薮原検校の身を三つに切り分ける処刑を老中・松平定信に進言するのだが、ふたりは相通じるものを感じあっていた。
そして余禄だが、世田谷パブリックセンターは三軒茶屋にあり、その道路一つ隔てた小路にわが高校同期が営む居酒屋「一心」がある。観劇後に同期4人と一杯呑むことも目的であったが、それも果たし、至福の一日となった。
薮原検校