呑み会をどうセットするか。手帳に記された店を眺めながら、いつもかなり迷う。今回は前々回で紹介した仏・独を放浪してきた高校同期の友人である。住みにくい日本を見限って渡仏する前に、日帰りで富山に来るという。夜汽車に乗る前に呑もうということになった。場所は富山駅前とするが、やはり和食だろう。しかし、時間は4~5時間もある、果たして呑み続けられるだろうか。進学校にして、彼ほど無謀な人生を送ったものはいない、ひとりで聞くにはもったいない気もする。とすれば、一定の人数が入れて、じっくりと話ができる完全な個室だ。そういえば、個室でしかも円卓のある割烹を思い出し、グッドアイデアと自賛、早速部屋指定で予約をする。問題は料金だ。その円卓は8人まで座れるという。64歳の良識は、無謀な要求はしない。それでは必ず8人入れるから、ひとり6000円で頼みたい。年齢からして、それほど呑み食いはしない、時間だけは3時間以上ほしい。こうしてリーズナブル?な交渉は成立した。ウィンウィンだと信じている。
次なるは、8人の同期生集めである。ここは何としても女性がほしい。この年齢でも、場が華やぐことは間違いない。難問だが意を決する。「フランスの話を聞きたくないか。計算づくの、つまらない男ではないぞ」を殺し文句に、たまたま数ヶ月前に呑み屋で居合わせたばかりの同期の女性に電話をした。ふたつ返事で了解となり、あとふたりも用意するという。女性にしては珍しい心意気だ。男5人も何とかなり、ほとんどが高校時代以来となる同期による呑み会が成立した。グーグルマップで“フランス”をコピーして配布、「イサム壮行会」と銘打った。
昭和39年4月、イサムは演劇に興味があって、日大芸術学部に入学する。すぐに小さな演劇集団に参加するが、そこから転落が始まった。デカダンスを気取らなければならない。酒と女を媒介とした空疎な演劇論で、普通な生活ができるわけがない。また仕送りだけで足りるわけがなく、外資系の商社で長期のアルバイトをした。このことが放浪のきっかけである。横浜から船で、なけなしの金をもって、フランスに渡った。飛行機だと70万円だが、船だと20万円だった。パリでは、語学ができないので日本人だけでたむろすることになるが、それでも楽しくて仕方がなかった。ほぼ1年して金が底をつき、稼ぐのならニューヨークとなり、渡米する。電話帳で皿洗いの仕事を見つけて、同じような生活を続けた。その後ドイツに移る。そこで日本人留学生と恋に落ちる。帰国して何とか生活基盤をつくりあげたいと思ったが、思うにまかせなかった。そんな失意を胸に再びフランスに渡る。そこでフランス語を本格的に学んで、翻訳なんかもできるようになった。バブルの時は、ガイドでの収入もあり,生活に事欠かなかった。今回の渡仏では、南仏の田舎に共同出資した農園で、オリーブの栽培を再開する。イサムの青春はいまだに続いている。
そんな話を聞き出したのだが、それも途切れ途切れであった。危惧?はしていたが、おんな3人の独壇場である。卒業アルバムも持参して、人物月旦は上下し、話は四方八方に飛ぶ。呑みっぷりもなかなかで、清純な女子高校生に押し込められていたものが、この時とばかりに噴出したみたいである。2次会では、ダンスを踊りながら「ねえ、フランス語で囁いてよ」となり、吹きだしてしまった。
イサムのプライバシーを暴くようになってしまったが、この年齢になると、一期一会がよく理解できる。こんな男をやはり記憶に留めておいてほしい。五木寛之に「デラシネの旗」がある。デラシネはフランス語で根無し草。襤褸っ切れのような旗だが、南フランスで、必死で振られていることを肝に銘じておきたい。
イサム壮行会