極道記者

麻雀と競馬、この話題についていけないと仲間から弾き出されてしまう時代があった。博才に乏しく、ここぞという勝負でのいい思い出は持っていない。それでも週日の夜は麻雀に明け暮れ、土日は競馬予想に血道を上げていた。昭和48年頃である。
 羨ましい男がいる。高校中退の不良少年が、東京スポーツに“ボウヤ”としてもぐり込み、今も競馬記者として名を馳せている。少年の住まいは下町の北品川。戦後の混乱の残る中、中学時代から悪がきで通り、麻雀に病み付きとなり、先輩に連れられて出向いた大井競馬場でビギナーズラックに出会う。「なんだよ、競馬は初めてだっていうのに、お前特券で買っていたのかよ」と驚く先輩を前に、1000円の特券は8700円とふくらんでいた。明けても暮れても競馬のことばかり考えるようになった少年が眼にしたのが、東京スポーツの連絡員募集の広告。それに飛びつき、競馬人生が始まった。男の名は塩崎利雄、昭和19年の生まれである。自伝といっていい著書「実録 極道記者」が復刻されたと聞き、ようやく手に入れた。
 東京スポは夕刊紙で、大映社長であった永田雅一が経営に乗り出し、社長に太刀川恒雄が就き、プロレスと競馬で伸ばしていった。伸ばしていったといっても、他に手は無かった。プロレスは太刀川の親分である児玉誉士夫が日本プロレス協会の会長を務めており、競馬は永田が天皇賞やダービーを制した名馬の馬主であり、ノウハウも人脈も揃っていたのである。「とにかくインパクトと、読者をアッと驚かせる話題性だけで攻めろ」という編集方針。記事のウラなど取ろうが取るまいが関係なく、ド派手な見出しを躍らせる。読者もそんなことは期待していない。東スポを小脇に抱えたポッカズボン姿のおっさん達が羽振りのいい時代であったのだ。
 「いまボウヤで使っている塩崎なんですが、競馬が大好きだからというんで、試しに原稿書かせてみたところ、ツボを心得ていてなかなか達者なんですよ。写真を見ただけでどこの誰かもすぐいえるし、血統にも精通している。この男は使えますよ」。というわけで、晴れてアルバイトから正社員となり、競馬担当記者が誕生した。
 競馬記者は取材もするが、馬券も買う。塩崎の場合、それが半端なものではない。勝負師という立場からすると結局「いくら張れるか」だ。自分の買う目に自信があるか、信念を貫いて勝負ができるか、その度量を計るものが、いくら突っ込めるかではないかと考える。当時の買い方の主流は枠連。枠にはいっている馬が、1着2着で来ればいいというもの。こんなレースを経験している。ほとんどノーマークの馬に乗る親しい騎手が「塩チャン、今度は違うよ。とにかく滅茶苦茶にいい。絶対に買ったほうがいいよ」という。滅多にないことで、めずらしいなと聞いていたが、自分の借金もにっちもさっちもいかない窮状になっており、ここを勝負時と決めた。全財産に更に融通も受け、更に更にコーチ屋といって、払い戻しから3割バックを受ける条件で、これに賭ける奴を募った。下手をすれば今生の別れになるかもしれない、それ程にすべてを賭けた。そしてやんぬるかな、ノーマークの馬が二番手でゴールインする。全身に鳥肌が立ち、足元がガクガクと震え、同時に体全体が陶酔感に包み込まれ、未経験の快感が襲ってきたという。自分の馬券で700万円、祝儀で1300万円が集まった。
会心の一戦の影に、数倍の逆が存在する。これが博打の常識で、誰もこれから逃れることは出来ない。塩崎が背負い込んだ借金のピークは3億円を超えている。地上げの帝王と呼ばれた最上恒産の早坂太吉から、2億円を融通してもらうところが圧巻である。
最近の世情を見ていると、こんなはみ出し男がまぶしく見えてくる。ヤクザとも、右翼とも平気で付き合える度量が何ともいい。
そういえば、同期生にこんな男もいた。カマシの団子というのは、馬の能力を引き出すために蝮のすり身やスッポン、にんにくなどを配合したもの。このカマシを作って売りさばいていた。特異な人材を輩出する岩瀬中出身で、千葉大だったと思うが、手品や催眠術に異常な興味を見せていた。もう既にこの世にはいない。この小説で思い出す事ができた。これもありがたいこと。

© 2021 ゆずりは通信