相模原市で起きた障害者施設での殺傷事件を耳にした時、ドストエフスキーの罪と罰を思い起こした。金貸し老婆を殺害することが僕にはできるのだと思い込んだラスコリーニコフ。選ばれた人間だからこそ、こんなちっぽけな老婆を消してしまってどんな罪があるというのだ。そんな思いが妄想をかき立てていく。容疑者もそんな錯覚妄想にもてあそばれたのだろうか。的確にこの事件をとらえているのは最首悟である(バックナンバー603参照)。7月30日、北陸中日新聞「こちら特報部」は伝える。
「猟奇的な犯行ではない。容疑者は正気だったと思う。そして口には出さずとも、内心で彼に共感する人もいるだろう」。正気は、重複障害のある人だけを狙い、刃物で頸動脈を次々と刺していることで明らかだ。被害者の家族に謝罪している。個人の倫理としては殺人を認めていない。しかし、生産能力のない者は国家の敵であり、社会の敵であり、そうした人たちを殺すことは正義だと見なす。確信犯である。深刻なのは異常な妄想として片づけられない点で、いよいよ来たかと感じた。ちらつき始めているのは尊厳死、安楽死に続く「与死」の議論で、合法的にある一定の状態に達した障碍者や高齢者に死を与えようという考え方である。出産を含む生産能力のない者は社会の一員に値しないと見なす風潮と奇妙に一致している。
今回、犠牲者の氏名がいまだ公表されていないことも事件の背景と通底する。健常者であれば発表して、悲しみを共有できるが、発表すれば、「あの人なら仕方がない」という反応が出ることを恐れているのではないか。それは障害者が人間ではない、人間から外れていると見なすことにほかならない。
最首には40歳になるダウン症で複合障害のある星子がいる。「あー」と発声するが、言葉を話せず、8歳で視力も失った。食事も自分でとれず、丸のみで、排せつの始末もできない。2日も世話をしないと死んでしまう。「この子が死んだら、どんなに楽になるかと思う時がある。だが、命について、こんなに考えを深めてこられたのもこの子のおかげだと感謝している自分もいる。その両方を離せない。殺すという一線は越えられない」。結局、命はわからないし、手に負えないもの。いのちはいのちでしかない。そんな事実がうめき続ける自分をとどめている。容疑者のような第三者や国家が「代行」し、決着を付けることだけは絶対に許せない。生き易い者(最首)が行き難い者(星子)に身を寄せて、より生き易くなってしまう逆説。星子の登場によって助けられた、という思いなのだ。
もうひとつ気になるのは、容疑者が衆院議長に書いた手紙の中に「施設で働いている職員の生気の欠けた瞳」という表現。過酷な勤務と低賃金に押し込まれている職員らの共感を呼ぶのではないかという危惧である。そうした容疑者を生みかねない土壌が職場にあるのだぞ、という威嚇めいた脅しのようにも聞えるからだ。
2025年問題といわれる超高齢化社会の本格到来を前に、医療・介護の切り下げに加えて、働かざる者食うべからずという風潮、そして若い世代に迷惑はかけたくないとする思いも重なり、与死という言葉が現実味を帯びてくる。
さらに言えば、危険な人間は精神病院へという安易な発想が広がることも危険である。殺意や極端な思想を持つからといって、精神疾患とは限らない。
いのちはわからないし、手に負えない。今はただ、この言葉をかみしめるしかない。
与死