鉛筆で描く。といっても、軽いものではない。彼の描く眼は何かを射抜いている。彫塑、クレヨン、ペイント、油絵、墨など表現素材の変遷を重ねて、ようやく鉛筆に辿り着いた。ニューヨークの画廊600余りを、油彩画を携えて訪ね歩いたがすべて断られ、オリジナリティの必要を思い知らされてのこと。鉛筆画しかないと思い定めた時に、思いがけない最高のモデルを得ることになる。人間国宝となった瞽女・小林ハル。その瞽女唄の虜となって、描きたい衝動が突き上げてきた。見えない眼でもって見据えている眼を、深いしわの奥に潜んでいる、何かを凝視する眼を描いて見せた。それは超微細な鉛筆粒子で塗り込められているのだが、塗り込んでいるのは人間の深い情念のようにも思われる。白髪1本も、しわのひとつも、おろそかにしていない。生の痕跡を見逃すものかという執念である。それほどの衝撃を与えずには置かない。
いささか賛辞が過ぎたかなと思う。というのは画家本人の振る舞いから、この男にしてあの絵がどうして、とつい思ってしまうのだ。7~8年前に、友人の家で、一緒に飲む機会があった。ふたりは47年生まれの、富山市立五福小学校からの同級生で、何の遠慮もいらない間柄である。木下本人が自分のことをこんな風に述懐しているが、その通りである。
若かりし頃の私は、陳腐な野心と思い上がりで突っ走ったようなところがあった。いずれも自分は頂上を極める器だから、そうした時に困らぬよう、現在トップに立っている人物に会い、その立ち居振る舞いの帝王学を自らに課していた。しかし、意味もなくそうした人物の会えるわけでもない。自分の作品を掲げ晒すことで口実を作り、まるで他流試合を挑むかのような武芸者の如き気負いが私にはあった。
そんな彼を思い起こしてくれたのは「洲之内徹が盗んでも自分のものにしたかった絵」を手にしたからである。この6月に求龍堂から出版され、木下作品の油彩画「女の顔」を収録している。洲之内は木下を世に出したひとり。「帰りたい風景~気まぐれ美術館」(新潮文庫)に出会いを書き留めている。洲之内の現代画廊で最初の個展を開くのだが、滝沢修とか大島渚などに電話を掛け出して、見に来てくれという。知っているのかというと全く知らないといって動じない。また洲之内の思想転向について聞きたがり、お座なりな返事をすると、開き直って突っ掛かってくる。コンプレックスと自信がないまぜになり、上昇志向が際立つ、鼻持ちならない性格といっていい。けれどもどうも憎めない。
わが友人はいう。彼の生い立ちからすれば、そのくらいのことでへこたれてはやっていけない、どん底の辛酸をなめている。3歳の時に、自宅の火災から町を追い出され、呉羽山の竹やぶの中に住んでいた。弟は餓死し、母親はそれが原因で神経を病み、家出を繰り返し、飢餓線上を彷徨う生活であった。中学2年の美術教師が、彼の才能を見つけた。富山大学教育学部の大滝直平助教授を紹介し、彫刻、デッサンを学ばせた。この助教授もまた、旅費を工面してやって、滝口修造などを訪ねさせている。これが大きな素地となって、いまの木下に活きている。
どんな才能も、きっかけがなければ花開くことはない。そのきっかけは、ちょっとした一言でいいのである。木下の最初の作品購入者は高岡の銅器を梱包する箱作り職人で、爪に火をともすような生活にも拘わらず買っている。納棺夫日記の青木新門が、インド旅行に木下を誘っている。もちろん旅費持ちだ。好奇心のままにヒンズー寺院や貧民窟を訪れ、身包みはがされて、命からがらの旅ではあったが、哲人然としたインド人をモデルにした絵は、鉛筆画でしか描けないものである。
10月16日、同窓会に合わせて、上野の2つの美術館で話題のフェルメール展、ハンマースホイ展を見たのだが、北欧の静謐な絵画はどうも苦手である。情念のほとばしるようなものが性に合っているようだ。
参考/「生の深い淵から」(木下晋著 里文出版)
画家 木下晋