「別れを告げない」

 初めて韓国の現代小説に挑んだ。現在韓国で屈指の人気作家ハン・ガンの最新長編「別れを告げない」。22年に発売するや、1か月で10万部を突破した。その邦語訳を担ったのが売り出し中の斎藤真理子。彼女の翻訳だからこそ、触手が動いた。24年4月に白水社から日本版が刊行され、日本人読者は「訳者のあとがき」から読んだ方が、わかり易いという。1948年に起きた「済州島4・3事件」と呼ばれる大規模な住民虐殺事件を背景にしているからだ。その時代背景が理解できていないと読み進めない。念入りな書きぶりで、このあとがきだけで十分とさえ思えてくる。著者と翻訳者が質の高い対話をして、真実を探り当てようとしているのは読者冥利だ。韓国近代史は史実だけを追っていては決して理解できない。文学の役割と可能性を切り拓いている好著といっていい。

 ハン・ガンは自らの感性を信じて、朝鮮民族の不条理な歴史悲劇を語り尽くそうとしている。母の記憶に残る4・3事件、その母を介護し看取る娘のインソン。済州島の実家に残してきたインコに水を飲ませてほしい、とソウルで入院中のインソンに頼まれる親友のキョンハ。夢うつつを往来しながらの展開だが、やはり女性らしい気配りと想像力だなと思わずにはおれなかった。

 事件の悲劇は突き進んでいく。統一独立国家の夢は遠のき、南だけの単独選挙が48年5月10日と決まった。それでも「統一独立と民族解放」を掲げる済州島の武装隊は4月3日に決起する。これを危惧した米軍政庁や大統領となった李承晩、極右青年団員らは過剰に反応し、凄惨な討伐作戦に打って出て、無差別な虐殺が行われた。28万人の島民のうち約9万人が虐殺されたという説もある。これが朝鮮戦争となって更に苛烈となり、敵に呼応するかもしれないと予防検束し、時に済州島沖合にも遺体が捨てられ、対馬に流れ着き、供養された例も数多かった。反共が国是となり、遺族たちは慰霊も許されず、沈黙の中で悲しみは深く内攻するしかなかった。

 「思想的対立」というものがいかに人間を残虐な生き物に変貌させるかの証左でもある。それはまた、ガザに於けるジェノサイドにも繋がっていく。

 翻訳者の斎藤は、済州島には標準韓国語と異なる済州語があり、ハン・ガンはそれを尊重しているので苦労する。済州語が沖縄語に似ていることを発見、それも活用して何とか乗り切る。そして、ハン・ガンに代表される韓国の作家の裡に、民族の矜持を見出す。その矜持にこそ韓国文学や映画・ドラマなどの「面白さ」につながっていると確信する。そして、矜持にひそむ民族の悲劇に思いを馳せない隣国日本の凡俗さに恥じ入るばかりだ。

 斎藤真理子の著書「韓国文学の中心にあるもの」(イースト・ブレス)を再読した。

 

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