昭和にどっぷり浸かってきたが、それを語れといわれたら、いまは出来ないと拒絶したい。この20年余りの変わり様をみて、あの頃は、というわけにはいかない。生活そのものが昭和の余禄で暮しているといっても過言ではない。自らの手で、社会に対して付加価値なるものを生み出してはいないからだ。それは一方で、まだ時間を残しているという感覚かもしれない。しかし時間を持たない人もいる。自分史なるものを世に出した色川大吉である。寿命と競争をするように「わが60年代 若者が主役だったころ」「昭和へのレクイエム 自分史最終篇」(いずれも岩波書店)を相次いで上梓した。25年の生まれだから85歳、こころに期するものがあるのだ。ゆずりは通信バックナンバー203「フー老 世界に遊ぶ」で、尊敬畏敬を隠す余り、揶揄するような文体になったことを後悔している。秩父困民党を教えてくれ、司馬遼太郎の英雄史観では歴史の真実を伝え切れず、世の中を誤って誘導してしまうと諭してくれたわが先達である。これは読まなければならない。
色川が生まれたのが大正14年、昭和元年が満1歳というから自らが昭和史でもある。旧制二高、東大というが青白くはなく、共産党では民商で活躍するも六全協で離れているが、一方で演劇にも首を突っ込み、早稲田小劇場の前身である自由舞台に参加している。戦後の動乱も歴史の渦中にあって、もがくように全身で格闘していた。
60年安保のデモを「歴史の証人」としてこう書き綴っている。きわだって美しい三つのデモが目撃された。第一は、何といってもその内実の迫力、純粋さ、鋭さの点で群を抜いていた全学連主流派の隊列,第二は名も知らない零細企業労働者の、枠を突き破って噴出するような生気はつらつたるデモ(私自身その隊列に容れてもらった)、第三に新劇人会議の優美なデモであった。彼らの美しさは、その質の深さと関連していた。何よりも打算を超えた自発的な参加の熱情から生まれているように見受けられた。こんな風にみていたのである。確かに若者が主役だった。
だからというわけではないが、定職を得るのに時間がかかり、37歳で東京経済大学専任講師にありつき、ようやく安定した。しかしこの安定は自らの安定ではない。この頃には演劇を通して知り合った女性と結婚しており、一子も設けていたが、持ち前のリベラルは自由にはばたいていった。その交友範囲は反権威を身上としながらも、しなやかだ。
学生闘争を全面的に支持し、「都市の論理」を遺した羽仁五郎が自分の後継者にと目していたこと。三里塚闘争などを映像化した小川紳介は色川にとっては物心両面でたかられる存在であったが、組織内ではとんでもない圧殺者で、映画監督の虚像との落差に、小川のお別れ会で初めて気が付いたとか。同じ色川姓で、「麻雀放浪記」を著した阿佐田哲也こと色川武大とは対談企画で巡り会って意気投合、小説のイメージの広がる手掛かりを求められている。同じく色川姓の関西法曹界で活躍した色川幸太郎弁護士には、いろんな面で引き立ててもらったが、ある時思想転向した林房雄が幸太郎と間違えて、大吉を激しく非難する論陣を張ったのだが、ペンネームだと錯覚した林のお粗末さだったとか。交友は縦横無尽に駆け抜けている。
レクイエムといえば鎮魂だが、多くの仲間を送っていることを思えば、静かに葬送の曲をバックにして昭和史を語っているようにも聞こえる。自分と歴史状況の結節点にメスを入れ、いかに同時代の本質を自分の内体験を通して浮きあがらせるかという試みである。自己陶酔、自己嫌悪から自由になれているだろうか、省みて忸怩たる思いと色川は謙遜するが、なかなかのものである。
小生の場合は自己憐憫となるだろう。
「昭和へのレクイエム」