若者の相次いだ訃報に滅いりがちな時を過ごしている。何ともやりきれない。こうして言葉を失ってしまい、ぼんやりしていると、思いがけない抽象画が浮かんできた。哀しみを形にして表現すれば、こうした形象であり、こうした色であり、こうした線なのか、とはじめて思いいたった。難波田龍起の作品。1974年以降の瞑想で括られる「追憶」「昇天」「合掌」「生の詩」など。海の青を基調にしながら、海底から何か揺らめいているような、不思議な詩を奏でているような抽象画である。6月23日どうしても確認したくて、富山市天正寺にあるギャラリーNOWに出かけた。難波田龍起・史男記念美術館を併設、作品を常設展示している。
なぜにこうした作品が生まれてきたのか。作品は作品に語らしめよ、とはいうが、凡なる鑑賞者にはやはり背景説明が不可欠。1974年、難波田は次男・史男(33)を失っている。瀬戸内海でフェリーからの転落事故。そしてあろうことか翌75年、その旅にも同行していた長男・紀夫(35)を急性心不全で亡くしている。その衝撃は想像にあまりある。
史男は繊細な性格で、絵の才能も秘めていた。早稲田高等学院から文化学院美術科に進み、その繊細さを持て余しつつ、絵の勉強を続けていた。しかし、自己の絵画論を確立させようと同学院を中退し、早稲田大学美術科に入学する。大学紛争の激しい頃である。そこで過激派と一般学生の間で苦しみ、ノイローゼ状態に。その時の、心の傷痕はこの不慮の事故の遠因ともなっている。紀夫は家計を考えサラリーマンをしていたが、亡くなる1年前に絵筆を執っている。短い創作期間で作品数は少ないが、片鱗を見せているのであろう。78年に龍起・紀夫・史男3人展が開催されているからそう想像している。難波田には3人の男の子がいる。余談ながら、三男・武男は東大を出て医薬の研究をしているそうだ(NOWでの話)。
さて、はじめて難波田龍起の作品に出会ったのは、東京オペラシティ。新国立劇場の開演時間までちょっとあるからと、ぶらぶらしていて見つけたもの。今よりももっと小さな難波田龍起記念室。この広大な敷地の地主である寺田小太郎氏のコレクションを展示、とあった。観覧料は200円。図録を手にして、学生時代に近所に住んでいた高村光太郎の知遇を得、詩作をみてもらううちにその芸術観に共鳴、絵画に進むとあるのが妙に印象に残った。97年92歳でその生を閉じるまで、描けなくなるまで描こう、を実践した。晴朗、澄明な心象風景は日本における抽象表現の頂点、といわれるまでに、その画風も大きな変遷を重ねてきている。二人の子息を失った74年以降の作品は、やはり魂を揺さぶり、鎮めるものになっているように思う。詩人でもある彼はこんな詩を残している。「忘れていたわけではない 天然の摂理が 別離の悲しみを 忘れさせようとするのだ」。
6月17日の朝刊。28歳の若きいのちが一瞬にして散ってしまった死亡告知が二つ並んでいる。ひとりはわが同僚である。東京へ出かける途次、新潟県新井市の上信越自動車道にてガードレールにぶつかって横転。頭を強く打っての自損事故。入社してまもなくの頃、一度昼食をご馳走したおりに、大学で学んだマーケティング論を初々しく語ってくれた。
いまひとりは昨年退職された方の次男。ガス会社の滋賀県長浜営業所に勤務をし、昼休みにひとりガス管工事をしていての不慮の事故。もしそばに誰かがいれば、命を落とすまでは至らなかった。若いやる気が災いを招いたともいえる。
それでも、生き残っているものは歩みを止めるわけにはいかない。詮無いことと思うが、若者よ、命を惜しんでくれ。