ナラティブなバリデーション

 突然、認知症対応に迫られている。高齢化社会は思いもかけない事態を招来する。77歳の弟が、87歳の姉を介護する老々介護が10月5日に始まった。その日は認知症が進む姉の施設入居やむ無しの判断で、サービス付き高齢者住宅を2軒見学した。姉の長男も同行して、3人で喫茶店に入り、どうするとなった。姉の長男の嫁に対する攻撃的な言動は放置できない状況で、この2人を引き離すことが喫緊の課題となっている。明らかに姉は施設入居に拒否反応。しばらくして、弟から口をついて出たのが「今日から、わが家で姉を預かる」。甥っ子の家庭が壊れるのを見過ごすわけにはいかない。他に手立てはない。

 引き受けるといってはみたが、現実はきびしい。午前3時過ぎに起き出して、錯乱する気持ちがますます高じ、追い出されるという妄想が駆け巡る。次から次へと言葉の刃が飛ぶ。それに反論しても、説得してもダメ。どう対応するか、その対応もすぐに元に戻る。その繰り返しで、無力感は例えようがない。そういえば、こんな経験もしている。

 認知症対応のキーワードは、ナラティブなバリデーションだと思っている。介護保険の導入が2000年なので、その前である。我孫子市に住む小学校同期で社会事業大学を出た友人が宅老所を開いた。驚くとともに、すごい奴だと見直し、少額の出資を申し出、すぐに訪ねた。その彼女から認知症の人と豊かにコミュニケーションできるバリデーションと呼ぶ療法が開発され、スタッフ全員にその研修を受けさせているという。高齢者が尊厳を回復し、引きこもりに陥らないよう援助する方法として、63年にアメリカのソーシャルワーカーであるナオミ・ファイルが考え出し、03年に日本でもバリデーショントレーニング協会が設立された。一度そのセミナーに参加したが、スキルというより、ハートがないと難しいと思った。

 加えて必要なのはナラティブアプローチである。相手に自分の物語を語らせ、問題の原因となっている否定的な思い込みを、肯定的な内容に書き換えていく。高度な人間力が必要で難しいが、思いが強ければ何とかなる。被害妄想幻視から憎しみの対象者であっても、縁あって交わっている。何とか赦し合って、人生の最期に「お陰で幸せな人生でした」といって逝けるかどうか。いい思い出だけを掻き集めるから、話してよ。こんな具合である。認知症者はホンモノ、ニセモノを見分ける嗅覚は鋭い。

 更にこの際、認知症の医療的な診断もしてもらおうと、病院の高齢心療科に予約を試みたが、11月中旬になるという。医療逼迫はコロナだけではないのだ。これから押し寄せる認知症予備軍の対応にこそ備えるべきであろう。認知症の医療診断は気休めで、医療で改善することはない。現在患者は全国で460万人といわれるが、早晩600万人を超えることは確実。ナラティブなバリデーションと叫んでも、ヤングケアラーには無理であり、介護スキルを身に着けた数倍の人材は不可欠である。若年性アルツハイマーを抱える友人は、その苦労を間近に見て、とにかく介護報酬を倍増させてでも介護の人に報いたい。安全保障予算よりも、断然こちらが最優先だ。認知症で溢れかえる国家を侵略する国などあろうはずがない。

 

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