近衛秀麿

 1943年9月17日、ポーランドで開催されたコンサート「日本の夕べ」から話を進めたい。暴虐の限りを尽くすナチス占領下のポーランド、最後の抵抗として立ち上がらざるを得なかったワルシャワ蜂起。孤立無援での皆殺しの惨劇と廃墟と化したワルシャワで、そのコンサートは行われた。指揮は近衛秀麿で、演奏されたのは「未完成」と「運命」。聴衆はナチス党員を中心としたドイツ人。演奏したのは近衛が選んだポーランド人演奏家たち。虐殺の被害者が、虐殺の加害者に向けて演奏したのだ。演奏会を企画したのはヒトラーからポーランド総督を命じられたハンス・フランク。自分はヒトラーだけに責任を負っていると君臨し、ユダヤ人の収容所送りを容認するとともに、ピアノ演奏やオペラ鑑賞も好んだ。フランクが選んだのは同盟国である日本人指揮者の近衛、ベルリンフィルを自ら料金を払って指揮をしたのを皮切りに、それなりの評価を得ていた。しかし、近衛はユダヤ人亡命の手引きをしているとのうわさもあり、ゲッペルスと大島・駐独日本大使から活動を制限されていた。フランク総督は彼らの思惑など全く意に介さなかった。近衛は指揮者特権を生かして、ポーランド人演奏者を選抜した。過酷を極めるナチスはポーランド人の演奏をすべて禁じて、彼らは路頭に迷うしかなかった。演奏に飢えていたのであろう、これ以上ない屈辱と怒りを隠しつつ、矜持といえるテクニックを振り絞っての演奏だった。「多くの楽員は目を泣きはらしたり、興奮のあまり顔が蒼白になっているのを見た。そして音楽からこんな感銘を受け容れられる民族を、心から羨ましく思わずにはいられなかった」。近衛の述懐である。

 生涯のすべてを音楽にささげた秀麿がなぜ、わが視野に入り込んだのか。わが青春のひとこまを伝えたい。初めてのコンサート体験は1965年、大学2年の時。意中の女性は武蔵野音楽大学ということもあり、紀伊国屋書店のポスターに反応した。できれば隣にと思っていたが果たせず、ひとりでの鑑賞。会場は日本武道館で、ベートーベンのピアノ協奏曲5番「皇帝」。指揮が近衛秀麿、ピアノが井口基成であるが、どこのダレサマという感じだった。ところが数年前に書店のみすず書房コーナーに何と「近衛秀麿 亡命オーケストラの真実」(定価3800円)が並んでおり、記憶がよみがえった。これを手にして、ひょっとして歴史的なコンサートに立ち会っていたのだと知ることになった。

 彼の生涯はやはり近衛公爵家を抜きには語れない。長男・文麿は3度の首相を引き受け、A級戦犯となるや拘置所に入ることなく自殺した。異母弟でもある秀麿は子爵を授かり独立するも、文麿から最高の励ましと理解を得て、23年ドイツ留学を果たす。ドイツのハイパーインフレは円の価値を大きく高め、ベルリンフィルを数日借り受け指揮を可能にし、多くの楽譜などを収集させた。そして、富山で終焉を迎えたユダヤ系ポーランド人シモンゴールドベルクがドイツを追われ、ジャワで日本軍の捕虜となるのだが、秀麿が陰に陽に華族の影響力を駆使して、アメリカ亡命につなげたのではないかという説だ。44年パリで結成した私設オーケストラ「コンセール・コノエ」も影の目的はユダヤ人亡命だったといわれている。

 45年4月17日、ベルリンにいた秀麿は、進駐してきた米軍司令部に投降した。文麿から米国務次官グルーに、戦争終結を早めるプランを伝えよというもの。何としても伝えたい執念である。残念ながら叶わなかったが、一身をなげうっても兄に報いたいという純粋さである。これが活かされていれば、原爆投下はなかった。

 さて、秀麿はやはり華族の血が流れているのだろう。ノブレス・オブリージュという高邁な行動と、女たらしといういやらしさをうまく使い分けて恥じないところがある。久しぶりに「皇帝」を聴きながら、自らの小心翼々を嘆いている。

 

 

 

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