感じない男

僕は不感症だ!とカミングアウトし、自分の性を赤裸々に一人称で語る森岡正博の本が版を重ねている。「感じない男」(ちくま新書680円)。1958年生まれだから47歳、しかも生命学、哲学を生業とする教授だ。あとがきで、大学の教師である私が、こんなものを書いてしまってと謝罪しているが、よく読み込むと現代人の病理を救ってくれる格好の書かもしれない。青年男子必読だ。
 女性の初潮は周りから認められ祝福されるのに、男性の精通は誰も知らん顔だ。夢精で汚れた下着は自分で洗わなければならない。ひとりでした後の、何ともいえないむなしさ。そのうえまたしてしまうという厄介さ。その頃読み始めたポルノでは、大人の女が快感に身もだえして恍惚状態になっていたが、それに比べて自分の射精は何とつまらないものか。こんな体験が「自分の体は汚い」という身体感覚を作りあげてしまい、男の体になっていく自分自身というものを肯定できなかった。自分だけでなく多くの男が、根っこのところで「感じていない」のではないか。だからこそ制服少女を目にしてはゾクッとし、美少女写真を見てはあらぬ妄想を膨らませてしまうのではないか。
 こんな問いかけに上野千鶴子は、ようやく私の疑問に答えてくれる本が出たと評価する。男の性談義に「百人斬り」だの「何回イカせた」だのいくつかの定型があって、それにのらない性体験はタブーとされ、肝心なことは語られないままだった。「ほんとは感じていない」というパンドラの箱を彼が開けた。汚いことをするために依存する相手だから、女を憎めるのか。うーむ、女性嫌悪の闇は深いと慨嘆する。
 そう慨嘆には及ばないと、森岡は続けている。自らの不感症を認めよう。さすれば感じる女に厄介な感情を持たずにやさしくなれる。ついで、父親の射精が受精の端緒を切り開いていることも忘れず、「男は汚い」幻想から解放されよう。そして、「すごい快感」などあり得ないことを悟ろう。ミニスカ、制服、ロリコン、レイプなどのからくりを誰の目にも明らかにし、そんなイメージだけを次々と消費し続けていくことが、いかに生身の女を苦しめていることか、と。実際に読むと、もっと説得力がある。
 しっかりとした自制心を持つ大人が、実際にアドバイザーになりながら、性の悩みや難しさを語り、子供たちの性の発達や性行為を援助するという文化があってもいいと説く。本当にいいたいこと、思想的な背景については「無痛文明論」(トランスビュー刊 3800円)で読んでほしいという。現代文明のなかで生きる人間の姿が家畜小屋で生かされる動物の姿に似てきて、その心地よさを求めてますます自己家畜化していき、生命の歓びをも奪い取っていくとする論理だ。
 女のホンネを描く亀山早苗の「しない女 私たちがセックスしない理由」も合わせて読むと、いっそう理解が進むともいう。
 厳しい男競争社会は、女性に癒しを求める余り従来の母役渇望に後戻りするか、自ら不感症を認めて男女ともに解放されていくか、の分岐点に立っている。男らしく自信の塊のように見える男で、実際は不感症というのはやっかいだ。こんな男は弱いと見える女からの批判を最も嫌う。石原都知事が真っ先に浮かぶが、国歌の演奏を拒否する女性音楽教師が我慢ならないのだ。まわりにこんな男はたくさんいるが、間違っても、権力者にしてはならない。日韓、日中関係がきしんでくると、ナショナリズムがまた鎌首をもたげ、従軍慰安婦容認が出そうな雰囲気である。
 ところで、日経新聞の連載「愛の流刑地」が「愛ルケ」との略語が生まれるほどの人気というが、渡辺淳一はジェンダーフリー論ではどちらに与するのであろうか。彼も「感じない男」の一人であることは間違いないと思っている。

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