立松和平と「道元」

立松和平、道元に挑む。その主著「」は全95巻。難解な漢語が際限なく続く大著にも眼を通しての執筆。きっかけは、大本山永平寺から道元禅師750回大遠忌に因み依頼を受けたもの。機関紙「」に毎月原稿用紙20
枚で44回。自分にとっての修行と思い、打ち込んだ。しかしまだ道半ばである。道元26歳までしか描けていない。道元は54歳。いま立松も同じ54歳、生涯を書き切るまではどんなことがあっても生きていなければならないと誓願している。「道元」小学館刊2000円。

11月27日茅ヶ崎市民会館出会うことになった。森の夢市民大学で講演を依頼し快諾を得たのだが、加えてトークの進行をやる破目になってしまった。五十路を過ぎてからは、弁解しない、逃げないのが身上。とはいうものの、彼についての情報が余りにも乏しい。というのも、偏見なのだが年齢下の作家には何となくライバル心が芽生える。昭和22年生まれの2歳下。高橋三千綱や三田誠広などの世代。作風が甘いと敬遠していた。手元にあるのは「光の雨」一冊だけ。これは連合赤軍をテーマにした小説なので、あの悲惨なリンチがなぜ起きたのか、との興味から買い置いていたもの。とにかく実際に会うのが一番。彼の講演の前に時間を取ってもらい、主催者にも了解を取り付け、出かけた。究極の現場主義だ。近所の書店で見つけた「猫月夜」は避けて、ここは「道元」をリュックに投げ込んだ。これも巡り合わせか、茅ヶ崎はわが新所帯スタートの地。長男、次男と生まれて、わが夫婦にとって希望に満ち、油の乗り切った時期でもあった。30年前のことである。東京駅で時間があり、八重洲ブックセンターに立ち寄る。まるで運命的な出会いといわんばかりに、「時代の目撃者・立松文学の軌跡1980~1999」と銘打ち「遠雷・四部作」がデーンと眼前に現れる。河出書房新社9800円。それを眺めながら、懐かしい風景が窓外を流れてゆくのを見やって約1時間。茅ヶ崎駅に立つ。そこは30年前とはもちろん一変している。愛用したディスカウントショップ・ダイクマは電器販売大手の傘下に組み込まれていた。

高野山真言宗特別伝道檀信徒大会。講演「人はなぜ旅をするか」作家・立松和平氏。茅ヶ崎市民文化会館前の看板である。その開会1時間前、彼はリュックとスニーカー姿でやってきた。爽やかな風のごとくである。講師控え室でゆっくりと話をさせてもらった。トークのイメージがおぼろげながら浮かんできて、まるで同級生が旧交を温めるような雰囲気で、ありがたかった。

とにかく行動派である。8年前から法隆寺で1月7日から7日間修行をしている。一番下のと呼ばれる小坊主。明け切らぬ真っ暗の本堂に灯明を付けるのも仕事。寒さの中を勤行に明け暮れる。そして、あのエンタシスの柱が補修でモザイク状になっているのを見て、いかにメンテナンスに気を配っているかに思いをいたす。法隆寺大工と呼ばれる人たちが、日夜伽藍を回り、傷んだ箇所を丁寧に補修しているそうだ。そして100年から150年に一度は小修理、300年から400年には大修理を行う。昭和の大修理は昭和60年。ところが次の400年後の大修理には、資材の桧が手に入らないという。現在の森林事情ではとても無理なのである。愕然とする。そして、これからが立松の真骨頂。桧を植えよう、桧は300から400年で1メートルの径木に育つという。それなら自らの手でやってやろうではないか、となる。早速林野庁に働きかけ、国有林に400年不伐の森構想が出来上がり、鞍馬山にこの4月実現した。ボランティアが400年後を夢見て植林をしている。全国10箇所ぐらい考えるという。寺社、神社、城郭などに木材を供給する森として「古事の森」と名づけられている。 その他にも郷里栃木で足尾鉱毒のあと山にも植林をしている。

なによりも出色は100万人ふるさと回帰運動。このリストラ大失業時代に、ふるさとに帰り、自分を取り戻そうということ。「ああ!上野駅」の世代が定年帰農するために故郷に帰る。もちろん、身に着けた技術は時に神社仏閣の修理だったり、米や果物の販売助言だったりときっと役立つはずである。その帰郷運動の理事長に就任したという。意外と大きな反響を呼ぶかもしれない。そんな話を東京の友人にすると、女房も娘も東京を離れたくないから、あなた一人でどうぞ、といったという。悔しいではないかと号泣する。泣くな!友よ。そこは楽園なのだ。女房も娘も要らない。これが中年男の最後の極楽を作ってやるからと励ましている。

最後に、立松和平の本名は横松和夫だという。

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