ウエストサイド物語

 2月9日、高校同期4人が富山駅前の中華料理店・菜香楼で昼食会を開いた。在京の2人が偶然来富することになり、軽く紹興酒でも飲みながらやろうという趣向である。70歳を機に、公式の同期会は幹事の大変さを慮って休止となった。帰京する新幹線の時間までというのもいい。すぐにあの頃に戻れる同期生のよさが保たれるのが2時間程度ともいえる。

 当時コーラス部に属していた男に、ところで心臓外科の権威であった榊原仟(しげる)の高弟に嫁いだコーラス部のO女史はどうしているだろう、こんな問いかけで始まった。77歳の爺さんが話題にする女性はみんな高校生のままである。そういえば興銀富山支店に就職したS女史のエピソードも忘れ難い。入社した暮れのボーナスが親父より多かった。テニスで国体にも出場したが、その後熊本でテニススクールをやっている。武蔵野音大の声楽に進んだK男は、サッポロビールのCMソングを歌っていたな、と話題は自在に飛ぶ。

 ところで、フランスの田舎でオリーブ畑の栽培をしているⅠ男は健在か。この年齢でフランス在住はわが世代同期のヒーローだろう。終活だと称して、小さく無難に、ひたすら余生をやり過ごそうなんて、彼を眼の前にしたら、とても恥ずかしくて口にできない。そういえば、彼はウエストサイド物語の映画を観て、想像もできないほどの衝撃を受けた。「トゥナイト」を歌いながら、感極まることも。日大芸術学部に進んだのも、本格的にミュージカルを学ぼうと思ったからだ。中退してニューヨークに行ったのも、ブロードウエイの空気を吸ってみたかったのだろう。いろいろな挫折はあったのだろうが、ドイツのボン自由大学で学び、バブルの頃パリに来る日本人旅行客のガイドをして凌いでいた。一度日本に帰ったが、無年金のうえにビルの夜間警備員程度の仕事しかなく、結局はフランスに戻るしかなかった。日本での記憶といえば、10年に小学館から彼の訳で「新訳イソップ物語」が出版されている。異郷にあって孤独と郷愁は想像以上だと思うが、後悔はしていないだろう。八尾の料亭で生まれて、フランスで生涯を閉じる。一本のミュージカル映画に誘われた人生絵巻、それを完結させたことは誇っていい。彼のガイドで、パリを遊んでみようという話もあったが立ち消えになってしまった。

 ウエストサイド物語が映画化されたのが61年、わが世代が高校に入学したのが62年。試験が終わると、映画館に繰り出すのが最大の楽しみだった。

 さて、緊張が保たれる2時間が過ぎ、それぞれ家路につくが、その哀愁も捨てがたい。何かを振り切って、歩いている。ここはひとりで受けいれるしかない空間と時間だ。口をついて出たのが都はるみの「小樽運河」。「精進落としの酒を呑み、別の生き方あったねと」。目頭が熱くなる。

 最後に、我らが77年を「下り坂」と称し、明治維新から敗戦までの77年を「上り坂」と対比させる向きがある。そこで聞きたい。これからの77年はどうなのか。地獄坂にしか思えない。我らが世代の責任でもある。

 

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