俳優の高橋昌也が年明けの1月16日に亡くなった。そういえば、わが人生の乱調は彼が演じたラスコリーニコフを観ることから始まった。65年の秋であった。大学は学費値上げ、第2学生会館の運営を巡って騒然としていた。国文科に属していた友人が演劇のチケットを持ってきて、露文3年の女性と観にいってくれないかと押し付けたのである。それが劇団雲の「罪と罰」で、有楽町の読売会館であった。今のビッグカメラである。彼女の下宿が早稲田南町にあり、そこで紹介され、地下鉄で向かった。大学に入ったら読書だと思い込んでいたこともあり、生協で買った書棚は文庫本で埋まりつつあった。なぜかトルストイではなくドストエフスキーが体質に合っていると思った時期でもあり、露文の先輩女性とは話を合わせる事ができた。しかし初めて観る演劇である。
若い高橋昌也が清潔に演じており、松村達雄が酔っ払いのマルメラードフを老獪な演技でサポートしていた。ほぼ4時間の大作だったが、緊張していたこともあり、ある種の感動を味わうことができた。終演となって外は夕暮れである。どうしたものかと思ったが、新宿で飲んで行きましょうとなった。ジャズ喫茶でウオッカなるものをストレートであおりながら、今であれば赤面する青臭い話を続けた。
当時のわが下宿が柏木4丁目で、新宿から歩いて15分程度の4畳半。どういう経緯か彼女はその下宿で夜を明かし、翌日ふたりで登校することとなった。20歳の青春の一幕である。真剣に思い悩む人生の本番が始まったといえる。そういえば亡妻は大阪外大のロシア語科で学んでいる。
この高橋昌也も演劇人らしい派手な人生を送っている。俳優・加藤治子、料亭のお上、38歳年下の女性と3度の結婚を乗り切り、93年食道がんで食道を全摘出するも銀座セゾン劇場を努め、00年に俳優に復帰している。演劇の持つ魔力というのはとてつもないエネルギーを生み、現実と非現実のあわいを泳ぐように生きられるのだ。
あれからほぼ50年の人生を生きたのだが、いまだに何もわかっていないことに気付く。自己というのは何ものなのか。何度となく学び直さなければ、ついつい煩悩に満ちた凡愚に堕ちていかざるを得ない。例えば老後のこと、子どもたちの行く末、孫たちのことなどにとらわれる情けない自分がいつも立ち現れる。
そこでぜひ勧めたいのが藤原書店から出された竹内敏晴の「からだと思想」全4巻。「からだとことばのレッスン」と呼ばれる独特の演劇トレーニング手法から、人間関係の気づきと自分を変えていく営みとは何か、が理解できるはずである。特に「からだ=魂のドラマ」で亡き林竹二・宮城教育大学学長との対談がいい。画一的学校教育に殺されるのを放置できず、全国の小学校で自由な想像力を引きだす授業を実践し続けた林竹二がいまこそ読み直されるべきである。そして竹内のからだの解放を通して、こころが解放される演劇の底にある生きる力を引っ張りだす手法でもって、子どもたち、若者たちを甦らせてほしい。つまらぬカネを残すより、この生きる力こそ彼らの人生を豊かにするのである。
いまアベ復古手法が教育の分野に及んでいるが、誰にも幸せをもたらさないことだけははっきりしている。道徳の科目ではなく、演劇哲学こそ教育に導入しなければならない。
ところでしつこいのだが、東京知事選である。東京都民で選挙権を持っているみなさんへ、やはりお願いしたい。脱原発で絞り、アベストップで少なくとも勝てる候補に絞り込んでほしい。
演劇トレーニング