漲る緊張は同じだが賭場ではない。昔は屠殺場ともいわれていた。その屠場が初めて写真集となって世に出た。大阪・松原屠場に20年通い、シャッターを押し続けたフリーの写真家・本橋成一が出版に漕ぎ着けたのである。これを引き受けたのが平凡社。映っている人の了解を取り付けているな、と本橋に念を入れているはずである。屠場で働く人は部落民というレッテルが張られており、写真集に素顔をさらすには、余程の覚悟がいる。無断でやろうものなら、本の回収だけでは終わらない。島崎藤村の「破戒」を思い出して欲しい。本橋のキャリアがあってこそ平凡社も腹を括ったのであろう。そこまでいわく付きとあれば、手にしないわけにいかない。「屠場」定価2800円。写真集を買うのは、「沈まぬ太陽」のモデルとなった小倉寛太郎の「アフリカの風」以来である。
装丁も重厚で、モノクロ写真から音や声が聞こえてくるようだ。引き出された牛は、鉄板の四角い箱に追い込まれ、眉間を銃で撃ちぬかれる。飛び出すのは弾丸でなく、鉄の芯棒で、眉間にあけられた小さい穴に、ワイヤーが通されて、脳と脊髄が押しつぶされる。神経を完全に破壊しないと暴れるからだ。逆さに吊るされ、喉を切って素早く血を抜く。3人のチームが、1頭を丸ごと1本のナイフで解体していく。面皮剥ぎ、前肢切除、後肢切除、頭落とし、舌出し、胸割りと進み、それでもなお牛の形をとどめた腹部に一太刀いれると、全内臓が湯気を立てて、雪崩を打って落下する。内臓は全て繋がっているのだと知る瞬間でもある。その間ざっと30分、まるで芸術である。
屠場は熟練労働者の集団だ。「足もち3年。皮むき8年」といわれ、足持ちは皮を剥ぐときに牛の足を持つ助手のことで、皮をむくのに8年を要する。ナイフさばきの妙味というのは、ナイフが腕ごと前に伸びて、スピードとリズムがあいまって動き、その仕上がりは皮にも肉にもほとんどキズがつかないことを指す。ナイフが自然に動き出しているというレベルになるにはそれほどの修練がいる。ナイフは年に4本は潰す厳しい労働でもある。
「いのちあるものは、常にたくさんのいのちをいただいて生きています。まさに人間はその頂点です。その当たり前のことがどんどん見えなくなっています。いえ、なるべく見せないようにしている。いのちをいただくということは誰かがその役目をしているということです。屠場は特殊な職場ではなく、当たり前の職場なのです。そこから、人間も同じいのちあるものだということが、改めて見えてくるのです」と本橋はいう。巻末で鎌田慧は、動物の体温と人間の体温によって工場全体が暖かい、機械相手の無機質な工場労働とは明らかに違う、「やわらかな活気」と表現している。
部落解放同盟松原支部の吉田明が「わしらは人間、わしらこそ人間」と題して、これも巻末に添えている。私達の住む被差別部落・更池は身分制度により、江戸時代から死牛馬の処理をさせられてきた歴史のある典型的なムラである。明治になり「解放令」が出され、政府によりこの仕事が奪われかけた時、「この仕事を奪われては、死活問題である」と決起した数少ないムラでもある。「人の世の熱あれ、人間に光あれ」と胸を張っている。
本橋は1940年生まれ。「炭鉱(ヤマ)」で写真家デビューし、「サーカスの時間」「上野駅の幕間」などの写真集を出しているが、映画も作っている。チェリノブイリの原発事故後にベラルーシに入って撮影した「ナージャの村」「アレクセイと泉」は数々の国際的な賞を受賞している。東京・東中野駅前でカフェ・ポレポレ坐も運営しているのだが、「ポレポレ」とは、スワヒリ語で「ゆっくり、ゆっくり」という意味。本橋の仕事は、時間をかけて「思い」と向き合うもの。デジタルはやらず、撮ってきて現像をしてプリントをしてという全部自分で出来るその過程が、とても大事な時間だという。
東中野は上京して初めて住んだところ、次の機会にはポレポレ坐に足を運ばねばと思っている。
参考/図書新聞9月24日号
「屠場」