「高村光太郎の戦後」

 自己流謫。さてどう読む、どういう意味だ。「じこりゅうてき」ではなく「じこるたく」と読み、「自らを罰して、自らを流刑に処する」という意味。無知を突き付けられる結果になったが、中村稔著「高村光太郎の戦後」(青土社)を手にした。キーワードが自己流謫。光太郎が戦前、自らの詩作で戦意高揚に寄与した愚かさを恥じて、東北に蟄居し、自らを罰した7年間を、著者の目で検証している。意外と冷めた目である。光太郎の「秋の祈り」はわが青春時代に最も愛唱した詩で、虜(とりこ)になっていた。実に心地よくリズムに乗せて、心の隅々に染み入ってくる。戦意を駆り立てるなど造作もないことだったろう。自己流謫なる彼の戦後はどうだったのか。

 45年4月の東京空襲で、アトリエが炎上し、多くの作品原型を失い、詩の草稿も机上で焼けた。その後、岩手・花巻へ疎開するのだが、そこでも空襲に出会う。亡き智恵子の紙絵の包みが無事だったことが僥倖。二度の空襲を受けて、花巻から更に山あいの太田村山口に丸太小屋をつくり、独居生活を始めた。近隣の村人たちは何くれと持ち寄り、食料に事欠くことはなく、全国の友人知己からの贈り物があり、出版社、新聞社から執筆依頼には酒肴などを必ず持参されていた。どうも流刑とは程遠く、原稿料や講演謝礼などに加えて「智恵子抄」の印税なども手にしている。詩人の三好達治が訪問した様子を描いている。炉に炭をつぎ、自在を操り、お湯を沸かし、米を研ぎ、飯盒を洗い、鍋を注ぎ、味噌を取り出しと実にこまめで精勤なのに驚き、味噌汁と飯盒飯をいただいたが、風味があってうまかった。こまめに動ける習慣を身に着けていたのである。

 着想で感心したのが、山形に疎開した斎藤茂吉の「白き山」と光太郎の「典型」を対比させて論じていること。両書とも戦後の作を収めた歌集と詩集だが、それほど深刻さがない。ほぼ同年生まれで敗戦時64~65歳だったので、意外と通俗な世間知も身に着けており、作品のそれとは釣り合っていない。著者は当初茂吉に軍配を上げていたが、光太郎が幾分よいのでは、と翻している。

 光太郎の帰京は52年10月。青森県知事から十和田湖畔子の口(ねのくち)に裸婦像製作の依頼を受け、十和田湖に船を浮かべるのだが、光太郎は強い感動を受けた。「智恵子を作ろう」「裸婦でもいいだろうか」「やはりアトリエを東京にしよう。青森では粘土が凍り付いてだめだ」「モデルも必要だし、優秀な助手は不可欠だ」と矢継ぎ早に展開していく。その中で、詩人・草野心平との交流が面白い。心平は生活のために居酒屋「火の車」開いていた。堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」によれば、ビールの買い置きが出来ず、客に前金をもらって酒屋へ買いに出かけていたという伝説がある。「草野心平氏来る、3000円都合してくれとのこと。1万円かし」とあるから、その好意のほどが分かる。光太郎の交友に見るのは江戸子気質といってもいい。実に気前がいい。

 さて、十和田裸婦像はひとりではない、ふたつの像が向き合っている。7年ばかり山にいて人間に触れなかったので、急に若いモデルに接して、大変影響を受け、あふれるものをひとりでは表現できなかった。また、この作品は失敗作であることが定評となっている。手の造形が夢違観音をイメージされているのに、体全体とのバランスが取れていないに行きつくらしい。老いという現実だったかもしれない。

 光太郎に比すべきことではないが、思うに任せない日々である。茨木のり子の詩がふと、口をついて出てきた。「清談をしたくおもいます/人の悪口 噂もいや/我が子の報告 逐一もごかんべん/受け売りの政談は ふるふるお助け!/求む 清談相手/女に限り」。当方74歳。

 

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