時に東に向きを変えて、気分転換を図ってみた。この10年ほど県西部の砺波が中心で、今はこれも県西にある小杉町を拠点としている。県東部の魚津市で加積(かずみ)りんごの収穫との知らせもあり、11月13日車を走らせた。4000坪のりんご園を営む富居幸一とは、何となく馬が合って、毎年友人知己にここのりんごを贈っている。娘に婿養子をもらって、数年前から後継者として修業させている余裕だろうか、よぉっと声を掛けると、日焼けした顔がほころんだ。買い込んだ後には、「持ってかっしゃい」と強風で落ちた傷んだりんごを袋に詰めてくれる。さて、次はとなるとやはり、滑川市に構える池田太一アトリエである。ひと回り先輩の82歳であるが、小柄ながら加山又造と見まがう風貌で、顔を見るとほっとする。
会いたいと思ったのにはこんな伏線がある。先月に石川県立美術館で「鴨居玲」展を見ていた。没後30年を記念するもので、展示作品ほぼ100点ですべてを網羅しているといっていい。見応え十分の展示で、とりわけ気になったのは「1982年 私」という200号の大作である。自死する3年前の作品で、白いカンバスを前に椅子に座る自画像を描き、これまで描いてきたモチーフの廃兵、酔っ払い、首吊りの男、老婆、放浪楽士、道化、裸婦、愛犬のチータも取り囲むようにしている。自画像は疲れ果てた顔で、体力も気力も限界で、これ以上描けないという悲鳴さえ聞こえてきそうな絵だ。しばらく絵の前から動けなかった。破滅型私小説作家ならぬ破滅型私小説画家といえばいいのかもしれない。この絵が制作の翌年、石川県立美術館に買い上げられたのである。ご存じ鴨居玲は金沢で生まれている。父は鴨居悠で、北国毎日新聞の主筆を務めていた。
ちょっと横道にそれるかもしれないが、戦後の金沢における美術復興運動に触れておかねばならない。敗戦間もない食糧難の45年に就任した武谷金沢市長はすぐに教育都市を目指すといい、金沢医大と旧制四高を母体とした国立大学構想と並んで、市立の美術高等専門学校構想をぶちあげた。いまさらながら、東京美術学校、京都絵画専門学校に伍していこうとする金沢人の心意気には驚くほかはない。早速の46年には金沢美術工芸専門学校がスタートし、その美術科洋画専攻合格者25人の中に鴨居玲がいた。その教授となるのが父と親しい宮本三郎で、よく自宅にも遊びに行っていたという。鴨居の才能は宮本もすでに認めていた。
池田太一も金沢美大を出ており、喫茶店で鴨居とお茶を飲んで話をしているのだ。鴨居展の話をすると、今でも思い出すが表情は脂ぎっており、画家として大成するなという雰囲気は当時からあったのは間違いない。やはり当たり前のことをやっていたのでは、感動を呼ばない。創造するエネルギーと際立った感性を持ち合わせないとだめだな、ということに落ち着いた。そして付け加えたのである。82歳にして、来年11月東京の画廊を個展のために予約したのだ、と。まだまだと思っている表明でもある。
もし池田太一の絵が見たいと思われる方がおられたら、滑川市の海岸沿いにあるカフェ「ぼんぼこさ」に立ち寄ってほしい。国の登録有形文化財である旧宮崎酒造店のこうじ蔵を改装したもので、なかなかの雰囲気である。
はてさて、古稀にしてのイライラ、モンモンはどこからきているのだろうか。アベクンが性懲りもなく繰り出す放言政策にあることは間違いない。政治も引き返せないだけでなく、経済もまた引き返せないところに引き込まれていっている。
再びの鴨居玲