書店の棚に「大学への数学」を見つけるとつい手に取ってみる。懐かしさというより、ほろ苦さを覚えるのだが、パラパラとめくり、この壁は遂に超えられなかったと慨嘆する。何かきっかけがあれば、超えることができたかもしれないという未練はいまだに残っている。本籍・理系、現住所・文系というねじれ人間とも思っていて、私立大学入試では数学で点数が稼げる文系を選んでいた。そんな記憶を思い出させたのはこんな記事である。
数学のノーベル賞とも呼ばれるフィールズ賞がある。これを授ける世界最大の数学者が集まる「国際数学連合」の総裁に森重文・京都大学教授がアジア人として初めて就任するという記事だ。代数幾何学の第一人者で63歳。簡単な形を組み合わせ複雑な図形を研究する手法を開発して、同賞を受賞している。子どもの頃に塾で褒められて数学好きになり、高校時代の参考書「大学への数学」で高得点を連発して有名人になったという。フィールズ賞はノーベル賞以上に厳しい。現在まで小平邦彦、広中平祐、森重文の3人が受賞しているが、「受賞時に40歳未満であること」「4年に1度」という規定がある。日本人では森重文ひとりとなる。というのは、国籍ではなく、研究環境を重視しているので、小平、広中は海外(アメリカ)においての業績となっているのだ。そういえば広中平祐が主宰する「数理の翼」夏季セミナーを富山で開きたいというので、その資金集めから手伝ったことがある。87年のことで、その8月に立山国際ホテルで、中高生66人を集めて開催した。懐かしい記憶である。
さて、予備校代々木ゼミナールの存続危機もこれに関連してくる。もし浪人を選択していたら、ひょっとして理系を選択していたかもしれないという「もし」だ。当時の駿台予備校は国立大学入試難関校の学力が求められていた。その駿台で37年間も教えた最首悟が朝日新聞9月27日の特集「ああ予備校時代」で回想している。その予備校論がいい。何よりも予備校には自由がある。この資本主義社会にあって、これほどイデオロギーから免れた教育機関というのは穴場である。だからこそ予備校生はあらゆる価値観から自由に根源的に考えることができる。こんな例がある、東大の助教授がアルバイトで駿台でやる時は、雑談から始まって、化学の真髄を説き、席があふれる名物授業だったが、東大で聞く授業は驚くほど無味乾燥でつまらなかった。その落差に唖然とした、と。
そしてもうひとつ、こんな電話がかかってきた。魚津に住む者なのですが、先日魚津西部中学の同窓会を開いた時に、林宏(旧姓・小柳)君が物故になっていたので聞いたところ、あなたが浜松で行われた葬儀に参列されたのを知り、突然ながら電話しました。実は京都大学に進学したのですが、林君が京大を目指して京都で浪人していた時に交友があり、東京に引っ越す時に彼の机をもらったのです。というものだったが、なんと「大学への数学」を初めて知ったのは高校同期の林からだった。
最首の予備校論に戻るが、国家による大学の締め付けが強まっているいま、予備校はいよいよ本領を発揮すべき時代を迎えている。気がかりは予備校が表通りに出てきたことです。裏街道にいたからこそ手にできた自由なのに、明るく健康的な表の学校になっては自由は危うい。知的欲望は本来、薄暗がりの中で生まれるのです、と。
されば古希を迎える今こそ、わがほろ苦き青春の「もし」を求めて予備校の門をたたくのも悪くはない。微分積分に再挑戦できると思うとわくわくしてくる。
「大学への数学」