空き家から見える日本破綻

 憲法29条は「財産権は,これを侵してはならない」という。しかし、財産である土地や建物は誰も引き取り手がない。老朽化した多くの家屋は空き家となって放置されている。限界集落に限らず、東京のど真ん中も例外ではない。他人事ではなく、身近の誰にも起きている事態でもある。日本が壊れていく破綻の現実に眼を凝らそう。

 引き継ぐ子がいない。子がいても取り壊す費用が出せない。ようやくの思いで取り壊し、更地にしても買い手が見つからず、高くなった固定資産税を負担し続けなければならない。相続放棄といっても解決とはならない。市町村財政における固定資産税の割合は41%を占め、この財源が落ち込んでいけば財政の破綻につながるだけに、はい分かりましたというわけにはいかない。次なる相続人にたらい回しされるだけである。富山市は初のケースとして、特定空き家を代執行で取り壊す。これは所有者、相続人が分からず、倒壊などの恐れがあると客観的に認められたものに限っての税負担である。これが始まりになるかもしれない。

 12月11日思い立って、法務局高岡支局に急いだ。手にしたのは、わが故郷・新湊に残る母の実家の土地登記簿。明治40年売買とあって、母の祖父名義となっている。この祖父は幕末の生まれと聞く。何と111年、4代にわたって、登記変更がなされていない。この整理をしなければ、空き家が処理できないということが明らかになった。憲法29条は何十人になるだろう相続人を割り出し、その相続放棄手続きを厳正に求めている。といって、誰も欲しがらない土地を、誰の所有にするのか。所有者は固定資産税を負担し続けねばならない。誰も喜ばない不毛の作業である。

 ひょんな事件がきっかけであった。小生の上京に合わせて、新湊に住む83歳の姉が一緒に行くといい出した。11月初旬のことで、姉は友人と秋の鎌倉に出向いた。小町通りの雑踏を歩いている時に、体格のいい男がぶつかってきて、ごめんといって行き過ぎて行ったが、姉は余りの激痛によろけ倒れた。痛み止めを飲み、湿布薬を張って何とか帰京し、外科でレントゲンを撮ると大腿骨骨折で即入院となった。そんな手続きやら、見舞いやらで、新湊に日参する羽目となった。そんな中で息抜きに散策していると、母の実家に出くわした。住んでいた従弟が一昨年亡くなって、空き家になっている。わが一家が朝鮮から引き揚げて来た時に、数か月お世話になった家でもある。幼児期には餅つきなどに集い、曳山巡行を2階から眺めるなど数々の思い出が去来する。そこでふと思いついた。この空き家処理がこれらの恩義に報いることではないか。姉や従弟に話すと、できる範囲で協力すると同意してくれた。というわけで、市の建築住宅課、法務局に詣でることになった。これから発生する煩瑣な作業と登記費用、加えて取り壊し費用。想像するだけで気が滅入るし、覚束なく、自信が持てない。市の担当は、こんな申し出は初めてで、協力は惜しまないと励ますのだが。

 だがしかし、こんな個人レベルの解決でどうなるものではない。大きな政策変更が不可欠。取りも直さず住宅政策に踏み込まねばならない。木造住宅の寿命はほぼ30年、これを繰り返し、住宅ローンを背負い続ける人生でいいのかとなる。加えて、震災の頻発と仮設住宅の課題を思えば、住宅の提供は国が責任を持つという制度もあっていい。格差社会がどんどん拡大していく中で、私有財産制度の根幹も見直していい。

 空き家問題から見えてくるもの。中国、北朝鮮の脅威を煽り、国民の生命財産を守るために国防強化しかないというが、果たしてそうだろうか。国民の生命財産がここまで破綻してくると、守るべき祖国は空き家だらけの空っぽ国家ということ。

 はてさて、こうした庶民の塗炭の苦しみの一方で、辺野古に土砂を投げ入れ、数十年の工期と2兆5千億の税金を投入して新基地を作るという愚かなことが進もうとしている。もはや中国と張り合うほどの大国ではないのだ、アベクン。

 

 

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