わが人生最高の栄光の日々。眠れない夜はそのシーンを思い起こし、反芻する。さすれば、どんなに頑固な不眠も溶解し、やすらかな眠りにいざなってくれる。昭和35年、15歳、中学3年の夏休み。新湊市児童倶楽部対抗軟式野球大会。甲子園で魚津高校がベスト8に進出。徳島商業と延長18回を堪えぬき、翌日再試合となった球史に残る一戦は前年のこと。長島がデビューし、テレビが銭湯、床屋に入り始め、野球全盛の序幕を告げる時代であった。
わが四日曽根チーム。夏休みに入るやいなや早朝&夕方練習。先輩高校生や野球好きの大人がコーチを買って出てくる。ここ数年は低迷を続けている。そして前々年のわが痛恨のエラーがトラウマとなって胸に突き刺さっていた。今年はピッチャーで4番。何がなんでもの思いに拍車がかかる。
1回戦、2回戦は軽く退けて、いよいよ準決勝。ここからは新湊高校のグランド。対戦相手は、後に新湊高校のエースとなった左の村下君を擁する庄東。0―0で迎えた5回。ランナーを1人置いて、まぐれ当たりのセンターオーバー。これが相手の目測ミスも手伝って決勝のホームランに。村下君には3打席で3本のヒットを許したが押さえ切った。決勝は最終回逆転サヨナラ満塁ホームランで進出を決めた三日曽根。その決勝戦の2回表。先頭打者で2塁打。そしてサードがファールフライを深追いして捕るのを見て、すかさずオンザベースで3塁へ。ここで相手が抗議。その時、次打者の鷲塚君が、そばまで来て初球スクイズを耳打ち。なにも考えずに走り、球は投手前に転がってセーフ。1―0。ついに優勝の栄冠が。わが町まで優勝旗を手に行進した。全員ユニフォーム姿ではなく、ランニングとトレパン。瀬戸内野球少年団である。4試合を無失点で、気合を込めて投げぬいた肩はこれで擦り減ってしまった。いま20メートル投げるのがやっと。まったく後悔はしていない。それほどの悲壮感でもあったのである。この時新湊高校野球部から誘いを受けた。これは嘘ではない。信じてほしい。
他人に何といわれようと、この思い出が人生の中でかけがえのない最高の一つである。
野球好きが集まって結成したセクシーダイナマイツが20周年を迎える。その初代の監督が小生。