和露辞典

歳末のうれしい話。「えっ、おじちゃん。ラリーサを知っているの」。年賀状づくりにプリンターを借りに来た甥っ子の連れ合いが驚いた声を挙げる。高岡の私立幼稚園で保母をしている。彼女の子供を預かっているという。大の仲良しで、いろんなことを話しあう仲。5~6年前になるだろうか、魚津市で住宅設備と税理士事務所を経営する本田夫妻の紹介であった。ラリーサはイルクーツクから富山大学へ留学しており、ホームステイでしばらく預かっていた。ロシア語を思う存分話したいという注文に、講演で招いた元NHKモスクワ支局長を務めた小林和男さんに引き合わせた。もうこの時とばかりに、ロシア語で速射砲のように話すラリーサのうれしそうな顔はいまでも焼き付いている。異国でひとりのもどかしさ、孤独感がよく理解できた。その時、家にあるロシア語に関する辞典の類いを彼女に贈ることを思い立った。
 実はあいさつ程度のロシア語が話せる。ロシア語を少しばかりやる亡妻の手ほどきを受けた。三人の愚息たちが使う見込みもなく、彼女に活用してもらった方が余程いいと思ったからである。5~6冊に及んだ。しばらくして、高岡の歯科医師と結婚したという知らせ。コサックの流れを汲む血の思いきりのよさに驚かされた。ところが、数年前片付けをしていて、2冊の和露辞典を贈り忘れてあるのに気がついた。どうしたものかと思案していたが、ようやく彼女の手元に届けることができたのである。数日後、甥っ子の連れ合いから電話があった。「おじちゃん、ラリーサはすごく喜んでいた」。
 彼女の出身地イルクーツクは人口67万人。バイカル湖南端に位置し、アンガラ川とイルクート川の合流点にあり、シベリア唯一の大工業都市で、毛皮を世界市場に供給しており、特に黒てんは世界的に有名。1652年、コサックの一隊が毛皮をとるためにこの地方に住み着いたのが始まりで、豊かな天然資源を背景にシベリア開発の中心地として発展している。本田夫妻は招かれて、かの地を踏んでいるが、バイカル湖畔の眼を見張るばかりの自然に圧倒されたという。シベリア鉄道で、ゆったり旅するのも夢だが、果たして実現するかどうか。
 自然といえば、とてつもない災禍が降りかかってきた。スマトラ沖地震だが、ひょいと頭の片隅に残っていた記憶がよみがえった。
 三陸陸海岸のとある村。庄屋の家が高台にある。ある日、突然に強い地震が襲う。家を飛び出した庄屋が海の水がどんどん沖に引いていくのを見て、かって古老から聞いたことを思い出す。とにかく山に向かって逃げることじゃ。庄屋は咄嗟の判断で、自らの家に火を放つ。村人がそれを見て、高台の庄屋に駆けつける。多くの村人がこのことで救われた。小学校の教科書にあったのは、多分そんな話だった。
 一介の庄屋にしてこの判断力である。10万人をはるかに超える死者を出したこの被災。世界中の紛争はすべて一時停止し、各国の軍隊は復興に出動すべきである。国連はそう呼びかけ、緊急に決議を出すべきだ。イラクの米軍も、イスラエルも、パレスチナも、中国人民軍も、テロ組織も、あげて震災地域に出向くのだ。銃をスコップに持ち替え、戦車に水と食料と医薬品を積み込んで,馳せ参じる。どれほど力強いものになるか。
 遅まきながら、新年おめでとうございます。戦後60年というが、わが年齢と同じで還暦。何となく昭和80年がわかりいい世代だ。
 遠くの災厄を尻目に、わが正月はどうか。長男夫婦の帰省がきまっていたのに急な仕事で不可能になってしまった。歩き出したという孫との再会が楽しみだったのに残念である。数々の被災者の身を思えば、贅沢はいえない。

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